跳舞猫日録

Life goes on brah!

Mind Aqua #1

今日はオフなので、ぼくは午前中いつものようにイオンに行ってなにか本でも読もうかと思ったのですが、なにも手に付きませんでした。うっかりすると「人生の意味」や「人生の目的」をはっきりさせようとする妄想に取り憑かれてしまいそうで、それが嫌でイオンから逃げました。そして図書館に行き、前々から気になっていた永井玲衣さんの『水中の哲学者たち』と片岡義男さんの『短編を七つ、書いた順』いう本を借りました。そして永井さんの本を読み始めたのですが、この本で哲学が水の中に潜ることと例えられているのに触れ、こんなことを考えました。「では、私たちは具体的にどんな水の中に潜っているというのだろう」?

「水の中」……ぼくは例えば永井均さんやウィトゲンシュタインの哲学が「水の中」をイメージさせる哲学だとは思えないのです。もちろん永井さんが間違っているなんてことはなく、ぼくが単にひねくれているだけなのですが……その時ふと、「水」というのはむしろぼくの心の中のことを指しているのではないかと思いました。ユングは読んだことがないのですが、心を広大な海や水の塊に見立ててそこに潜っていくことで真理(それは例えば隠されている自分自身かもしれません)に行き着くという構図をイメージしてしまったのです。

そう考えると、村上春樹が小説を書くことを井戸の中に入ることのように喩えているのをどこかで読んだことを思い出しました。井戸に入ることはそのまま深層に潜っていくことを現していると思うので、この喩えと重なるものがあると思います。村上春樹ファンのぼくは、自分の中に水が存在していること、それは潜れば真理/自分にたどり着く可能性を秘めていること、などを考えました。ですがこれはむろんぼくの勝手な思い込みです。だからあなたが同じことを考えなければならない、同じ価値観を共有しなければならない、とは言いません。それはとてもムチャな理屈です。

ですが、それでも大前提として「自分」というものはとても捉えどころがないことは共有できるのではないかと思います。これまでサールやダマシオやガザニガの本を読んだりしたのですが、ぼくという「自分」のコアはどこにもないかもしれないという説まで語られています。心臓にも脳にもなく、どうやら特定の部位に「自分」が宿っているのではなくそういった臓器が織りなすネットワークの上に「自分」が柔らかく宿っているのだ、と。ならばぼくが持つ「自分」はまさに水のようなものだと思うのですがどうでしょうか? 永井さんの本はまだ読めていないので、さしあたって思いついたこの問いは保留にしておきます。