単純な生活

Life goes on brah!

20260805

昨日の夜は日記を書き終えた後時間があったので、それまで読み進めていたジョージ・オーウェルの評論集『あなたと原爆』をさらに読んだ。ぼくはこれまでオーウェルのエッセイや評論は中公文庫や岩波文庫におさめられたものをひと通り(1周だけ)読んだつもりだったが、その印象とくらべてみてこの『あなたと原爆』は実にぼくの関心に沿った骨太の文章がおさめられていると感じられる。オーウェルのすごいところは、昨日も書いたけれど自分の中の違和感や穢れ、そして自分にとって不利なことがらさえも言語化して事実として提示するその肝の据わり方にあると見た。ジョイ・ディヴィジョンを聴きながら読みふけり、そして11時の消灯時間になるとそのまま眠ってしまった。

今朝は7時頃目が覚めて、それでいつも通りシャワールームに直行して熱めのお湯でシャワーを浴びて昨日の汗を流す。その後、昨日着ていたシャツとパンツなどを洗濯機で洗濯する。それから7時50分に開始される英会話のZOOMミーティングに参加して英語脳を鍛えた。ブレイクアウトルームにて集まられた方々とぼくの4人で英語であれこれ話し込む。今日の話題は日本のカスタマーサービス(広い意味での接客業)がどれだけユニークかというもので、ぼく自身――発達障害者には向いていない仕事、と言われているにせよ――そうした接客業の一翼を担っているので、興味深くほかの方々のお話を聞かせてもらった。

その後朝食を摂って、そして服を着替えて部屋を出る。すでに外は暑く、遅番勤務の日の常として今日も今日とてグループホーム本家におじゃまさせてもらい、そこで出勤されていた副管理者の方に昨日病院でもらった診断書をお見せする。その後そうした健康の話題やこないだの支援施設の方とのZOOMミーティングなどの話をしたりして、それが終わると食堂を貸してもらいそこで英語メモを書きつけていく。それにも飽きると『あなたと原爆』を読む。音楽はなににするか迷ったが、なんとなくここさいきんハマっているXTC『オレンジズ&レモンズ』を聴くことにした。

ふとオーウェルをいったん脇に置き、カクヨムを散策していると雨伽詩音さんの「初夏の閑居にて記す、うつ病療養日記」という連載エッセイが目を引いた。最新のエッセイを読ませてもらうと、AIと英語でやり取りをすることで自分自身が楽になった体験談を書いておられてそれに共感を覚えた。とりわけ、「英語を使うとそれだけで呼吸が楽になる」といった文が目を引く。英語を使用することで脳のみならず身体感覚まで開放的になったという詩音さんの体験が、ぼく個人が英語を使い続ける理由とも共振するところがあると思ったのだった。あるいはさいきん読んだ多和田葉子『エクソフォニー』をも思い出させるところがあるとも。

知られるように、日本に住んでいて英語を使う機会は特殊な例外をのぞいてそうあるものではない。それが日本の英語学習者にとっての足枷でもあるわけだけれど、それでもぼくが英語を学び続けるのは日本語と英語の構造があまりにも違うからであり、それゆえに自分にとって自明とは言いがたい英語の構造の中に自分を合わせていくとかたくなになっていた自分自身の思考が相対化され、おおげさに言えば「解体されてから再構築される」とも思えるのだった。そこに気持ちよさと開放感を感じるから英語で考えたりDiscordでチャットしたりすることをおのれに課している……そんなことを英語メモに書いていった。

英語メモが一段落すると、ふたたび『あなたと原爆』に戻る。ただやはりというか、Xのタイムラインが気になってなかなか読書に集中できない。『みいちゃんと山田さん』についてかまびすしく議論(?)がなされているのを読み、ぼく自身も――くだんの作品を読んでいないにもかかわらず――発達障害者としてなにか言いたくなる気持ちをグッとこらえる。こうしているとたしかにソーシャルメディア(SNS)が自分の集中力をさまたげているのを感じる。インターネットがいまのように大衆化される前はどうやってこのADHD丸出しのぼくは集中力をたもって読書していたんだろう、とも思った。

その後、本家を出てそれからいったん図書館に寄る。そして新刊をみつくろっていたら、前々から興味があった清水眞砂子さんの本があるのを見つけた。『人と本との幸福な出会い』というのがそれで、借りることにした。その後イオンに行きそこでその清水さんの本を読みはじめる。ただ、今日はXのことが頭の片隅にあったせいか、それとも暑かったせいかいらいらしていた。そうするとろくなことを思い出さない。過去のつらかったことが脳裏によみがえってきた。酒におぼれていた頃。あるいは、フラッシュバックが起こるまで上司に苦しめられたりした頃のこと……。

それでつい、出勤前の時間に(今日は2時から仕事だった)ぼくが所属している自助グループのLINEグループに暴言を書いてしまった。ここで書くことがはばかられる暴言だ……それをさっそくほかの方が読まれた。それで、リアクションをくださった。それがありがたかったけれど、同時になんだか自分自身がものすごく理不尽な立場に立たされているような気がしてならなかった。過去のことにいつまでも執着していてもなにもはじまらない。いまを生きて、未来につなげなければならない。ただ、それはわかっているものの過去に受けた理不尽な仕打ちは残り続ける……。

仕事に入り、いちおうは退勤時間まで仕事をする。いったん仕事のノリをつかんでしまうとあとはほとんどそのノリにまかせて仕事をこなすことができた。ただ、自分が吐いてしまった暴言の反動がかすかに自分の中に残っているのがわかって、休憩時間もそのことを考えた。発達障害者はネガティブなことがらを鮮明に覚えやすい性質を持つ、とメンターの方からそのLINEグループにておそわった。ならば、ぼく自身の中にいまだ理不尽なしごきやいびりに遭ったことが冷凍保存されていてもおかしくないはずだ。どうしたらいいんだろう。けっきょく退勤時間までなんだか気が晴れない、いやな感覚を感じながら仕事をした。

いま、これを書いているのはグループホームの自室だ。坂本龍一のピアノ曲を聴いている。こうしたことがらもいずれは過去として消え去って・忘れ去ってしまって、「そんなこともあったっけ」となってしまうのだろう。それはそれでいいのだけれど、いま感じているもやもやについてこうして記録しておくのもなにかの参考になるかと思って、はなはだ不名誉ながら書くことにした。

20260804

昨日は日記を書き終えた後、実を言うと時間はあったのだけれどいったいなにをしたかというとぼくが好きなアーティストである小瀬村晶さんの楽曲を聴きながらいったん横になった。そしてジョージ・オーウェル『1984』を読むかそれとも別の本をなにかしら読むか……と考えつつふと目を閉じ、すると小瀬村さんのピアノ曲に抱かれるような心地がして(あるいは、ピアノの調べに気持ちじたいが沈溺していく感覚をおぼえて)、そうすると本を読むことがバカバカしく感じられてしまった。思えば好きこのんで本を読んでいるというよりはぼくのばあいはなんだか暇つぶしというか、なんというかなかば強制的に活字を脳に詰め込んでいる状態だなと思ってしまい……そんなことを目を閉じながら考えたからかどうかわからないけれど、なんにせよ早々に眠ってしまった。ずいぶん眠ったものだ。

ただ、それだけたっぷり眠っても今朝は7時に目が覚める。起きた後はいつもながらシャワールームに直行して、そこで熱めのお湯でシャワーを浴びて血行を良くして気合を入れてから昨日着ていたシャツとパンツなどを洗濯機で洗濯する。それが終わると7時50分から英会話のZOOMミーティングに参加する。今日はぼくを入れて3人でブレイクアウトルームであれこれ話がはずむ。まずはぼくが背景画像で使っている絵の話が盛り上がり、その後今日の話題「ある市役所が職員のTシャツ着用を許可した」という話に移った。ぼくが勤務させてもらっている会社でも制服がどんどんラフなもの(べつの言い方をすれば「働きやすいもの」)に変化しているのを感じる。世間の趨勢なのかな、と思った。

その後、ある方が自分自身のスマートフォンが水没した体験談を話してくださった。思えばぼく自身もスマートフォンの扱い方はかなり雑な方なので(よく失くさないものだ)、その方の経験談から学ばせてもらったことはたくさんあった。とりわけ、いまとなってはぼくは知り合いの電話番号なんて暗記していない。いまLINEや電話あるいはWhatsAppなどでつながらせてもらっている方々にしても、いざスマートフォンが使えなくなればどうやって連絡を取ったらいいものかわからない。パスワードや電話番号やメールアドレスなど、困った時に必要になるものは紙のメモに書いておくなりして自前でバックアップを図ったほうがいいというのがその話の教訓で、なるほどなと思った。ただ、だからといっていまから動けるかどうかはまた別問題なのだけれど。

ミーティングが終わった後、朝食を摂ってから着替えて部屋を出る。まずは9時にイオンに行ってそこでペットボトルの無糖のコーヒーを買い求める(朝のコーヒーが習慣になってしまったようだ)。それから、始業時間までのあいだスマートフォンでXのタイムラインを見る。恥ずかしながら――いつもいつも否定的なことを書き続けているにもかかわらず――Xを見ることをやめられない習性なのはあいかわらずだ。ことに発達障害者として、『みいちゃんと山田さん』のことが気になってしかたがない。いや、ぼくは読んでいないのでなにもコメントのしようがない。またこの炎上状態の尻馬に乗ってあれこれ語ることは端的にある種の覚悟がなければできないことだろう。ぼくはまだそれだけの覚悟が固まっていない。ただ、気になってしょうがなかったので見てしまったのだった。

10時より仕事に入り、1時から昼休みをもらってそして休憩室で海苔弁を食べた後いろいろと考えをふくらませて、それを英語メモに書きつける。さいしょはXについてあれこれ自分なりに分析していたのだけど、ふと「自分は仕事中、『未来』『将来』といった建設的な・あかるくなる話題について考えて仕事をしていないな」と思ったのだった。いつも思うことと言えば、過去に自殺未遂をしたとかフラッシュバックを引き起こさせられるひどい目に遭ったとかそういうことばかりだ。それ以外にも酒におぼれて、そして「もう死にたい」「生まれてきたことが間違いだった」と思い込んでいた時期のことも思い出してしまう。いくら考えることは個人の自由(内心の自由)とはいえ、こうどす黒い感情が煮詰められるとゲップが出そうになる。

いまだにそんなことを考えてしまうということは、つまりそんなひどい目に遭ったことを覚えておいて(それこそ自分の胸に焼き付けておいて)いつか復讐する時を待っているということなのだろうか、とも考える。そんなことはない……と言い切れない自分がいる。いや、30代の時期にオーバードーズしてから数えること20年近く経っていて、そのあいだにグループホームの管理者・副管理者・世話人の方々や自助グループで知り合った方々、もしくはDiscordやMeWeなどで出会ったいろんな方々にささえられてきて、そうすると復讐なんて考えがバカバカしいと思えるようになったのもたしかだったのだが……。

いろいろある・紆余曲折を経た人生を生きてきてしまって、そのあいだに友だちの自殺やあるいは失恋なども経験したせいからかなんだかネガティブな考え方が頭に染み付いて離れないみたいだ。こんなふうな人間だから恋人ができないのか……というのは冗談だけど、自分の中の破壊的なネガティブさについてあれこれ考える。そして、Xを見てしまうのもそうしたXから垣間見えるどす黒さに共振してしまうところがあるからではないかと思ったりした。せっかくホッとできる環境に落ち着けたというのに、それでもふと自分をいじめた人のことを思い出したりしてしまう(それじたいに「懐かしさ」すらおぼえる)のと似ているんだろうか。XTC『オレンジズ&レモンズ』を聴きながらそんなことを考えた。

5時に仕事が終わり、そしてその足で図書館に向かう。先週予約していたジョージ・オーウェルの評論集『あなたと原爆』を借り、そして近所のクリニックに昨日の血液検査の結果の所見をうかがいに行く。薬はこんかいは出なかったが糖尿には要注意ということで、食生活を見直すべきだと思った。6時に夕食をいただき、そしてジョイ・ディヴィジョンを聴きながら(いや、なぜかは自分でもわからないけれど)『あなたと原爆』を読む。オーウェルの筆致はいつもながら剛直で淀みがないなと思った。自分自身の中にある違和感についてさえもごまかさず、1個の「事実」として俎上に乗せて論じていく。賛否は割れるだろうけれどそんなオーウェルのスタンスを見習いたいと思った。

オーウェルが復讐という行為について――ほんとうに、まったく予期していなかった偶然としてこんな文にでくわしたのだが――「復讐というのは自分が力を持たないときに、自分が力を持たないがゆえに、したいと思う行為のことだ」(秋元孝文訳・光文社古典新訳文庫 p.32)と記しているのを読み、そういうものかなと思う。いや逆だろう、とぼくなんかはさいしょは思ってしまった。「自分がガッツを取り戻した時にこそ、人は復讐を夢見るのではないか」と。ただ、オーウェルの考えをもうすこし推し進めるとこの「力」をどう定義するかが「くせもの」なのかもしれないとも思えて、それをはっきりさせるべく次の給与が入ったらこの本を買い求めて読み返す覚悟をかためた。

20260803

昨日は日記を書き終えて投稿した後、時間があってそれですこしジョージ・オーウェル『1984』あるいは佐伯一麦『渡良瀬』を読むかと思ったもののなんだか頭に入らず、まあいいやと思って横になっているといつの間にかうたた寝してしまっていた。その後目が覚めて、それから夜におこなわれた英会話のZOOMミーティングに参加して英語脳を鍛える。参加された方々とまずはアイスブレイクとしてそれぞれの自己紹介や近況を話し、相手の方がピアノのチューターだと知ってぼくも「ドビュッシーやサティ、坂本龍一を聴きます」と切り出したりする。夜の時間帯に似合うしっとりした話ができたと思う。それから、疲れていたのかなんなのかわからないけれど『1984』を読んだりしつつてきとうに過ごして11時には床についた。

今朝は6時半頃目覚めて、そして7時になるとシャワールームに直行して熱めのお湯でシャワーを浴びて、昨日の汗が染み込んだ上着とシャツとパンツと靴下を洗濯機で洗う。それから7時50分に英会話のZOOMミーティングに参加する。今日の話題は成田空港が世界で3番目に利用客数が多い空港になったとかいう話で、ぼくは旅行ないしフライトとはぜんぜん縁のない生活をおくっているのだけれどそれでも参加してしまった。参加された方々がまず、ぼくが背景画像としてあたらしく使いはじめた画像について質問される。それはもちろんありがたかったのだけれど、インスピレーションに則って描いたものなので自分でも説明がむずかしい。そのことを正直に話した。

それからほかの方々が今日の話題について話しはじめる。ある方が、今日の話題にからめて成田空港で勤務されている清掃員の新津春子さんのことを紹介された。なんでも中国残留日本人の2世なのだそうで、シビアな出生やいじめを耐え抜いていまのキャリアを築かれた方なのだそう(「カリスマ清掃員」なのだそうだ)。ぜんぜん存じ上げなかったので勉強になった。彼女に取材したYouTubeの動画もあるということで、時間が空いたら見てみたいと思った。そこから「里親」を英語でなんと言うか(「foster parent」だそうだ)といった話題にふくらんでいく。

ぼくは文法について知らないしろうとであるがゆえに煩雑な説明になってしまうが、英語では「Yes」「No」を答える際にかならずしも日本語の「はい」「いいえ」と対応しないケースがある。たとえば「You didn't watch the video, didn't you?(ビデオを観たわけではないですね?)」と答える際、日本語で「はい、観ていません」というのが答えになるばあいは「No, I didn't watch it」と「No」で受けないといけないのだ。これは頭ではわかっていても、いざ質問されたばあいにとっさに答えられるかどうかはまた別の話になる。今日はそうした事態に遭遇して、なんとか「No」と受け答えすることができた。こういうところですこしだけ自分の進歩を感じた。

その後、朝食を摂ってから着替えて部屋を出る。今日は9時半から総合病院の精神科にてぼく自身の発達障害について、月1おこなわれる面談がある日なのだった。患者さんの数はすくなく、あっさりぼくの番がまわってきてそれでぼく自身先月20日に仕事を休んでしまったことなどを話す。ほかには夜に小用を足すために起きてしまうことなどを話した後、いつもと変わりないということで薬もいつもとおなじ組み合わせのものを処方された。はたして前進しているのか……なんにせよ、大掛かりなことにならなかったのはよかった。その後、イオンに行き英語メモを書きつける。それが終わって後、今日の午後1時半からおこなわれる予定のある支援施設の方とZOOMミーティングについてグループホームの方々とLINEで話をする。

昼食を食べてからしばしうたた寝してしまい(いや、われながらよく眠るものだ。老化だろうか? 横尾忠則の日記でも老化現象としての昼寝が書かれていたと思ったが……)、それで1時15分頃目覚めてZOOMを立ち上げる。そして相手の方がすでにログインされていたので、それに応えてぼく自身あいさつをしてそこから近況を話す。さっき話したように20日に仕事を休んでしまったこと、昨今の暑さについて、熊本の地震についてなど話をする。ぼくの方はとりたてて話すことは――すくなくとも緊急性の高い話題は――なかったので、また9月後半にZOOMかなにかを使って話そうということでまとまった。

その後、実を言うとまた1時間ほど眠ってしまった……こうして考えてみると1日それでも9時間くらいは睡眠に使っていることになるのではないか。寝ぼけているわけにもいかないので外を見ると、なんと雨が降っていた。ゲリラ豪雨というやつだ。雨が止んだ頃をみはからってふたたび外に出る(それまでは『1984』を読んで半ページほどで頭がパンクしてしまった)。実は先月会社より受け取った要精密検査の書類が手つかずだったのだった。そのことで検査してもらいに近所のクリニック(グループホームと提携している)まで行った。

その後、Discordであたらしく入ったサーバであいさつをしたりして時間を過ごす。今日は病院づいた1日だったせいか、それとも読んでいる『1984』のせいか自分の人生の終わりまで考えてしまった。いや、まだまだやりたいことはあるのだけれど……過去、こんな人生に執着せずとっとと野垂れ死にすることがいさぎよい生き方・死に方だと思い込んで生きて、それで酒を浴びるように呑んで暮らしていた時期があったことを思い出す。どうせ人生に意味なんてない、と。さすがにいまはそこまで極端なことは思っていない。やはり、この生に未練はある。そんなことを思った。

いったいこれからどうしようか……51歳ともなるともうできることも限られている。ならば、いままでなにかに導かれるまま続けてきた英語学習と読書を中心に、仕事や自助グループ参加といった活動をもっとゆたかなものにしていくのがいいのだろう。酒におぼれていた頃、孤独に生きて孤独に死ぬのが自分なのだと――同郷の車谷長吉の小説の主人公を気取って――気張っていた。そんな生き方ももう限界のようだ。いまはこれを書けること、この人生を通してさまざまな人たちと出会えたことをありがたいと思う。さて、これを書き終えたら今度こそ『1984』を読めないかどうかためしてみようかな。

20260802

昨日は日記を書き終えた後、明日(つまり今日の8月2日)にひかえた英語研究会の会合のテキストであるアーネスト・ヘミングウェイ「フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯」の英文を再チェックした。その時々に関心ある英文のテキスト(ニュース記事や文学作品など)を輪読していくこの英語研究会ではいつも自分の読みのあさはかさを思い知らされ、過去に英文和訳で身を立てたいと思っていた自分の「若気の至り」「身のほど知らず」をいつもいつも思い知らされている。こんかいも、あらためて自分自身読み返してみて平易な文体で書かれているはずのこのヘミングウェイの英文がしかし自分の和訳にかかると意味を成さず、なんだかわかりづらいものになってしまうことを恥じてしまう。いや、自分を身勝手に卑下しこき下ろすことは参加者の方々にも失礼だし自分の精神衛生上もよろしくないにしても……。

ただ、それでもさっきまでジョージ・オーウェル『1984』の世界に――これも、無謀にも英文で読んでいる――入り込んでいてそれで暗澹とした気分に浸っていたことを思えばヘミングウェイを読み直したのはよかったのかもしれなかった。自分の読解のチェックが終わるとそれからはまったくやることもなくなって、『1984』に戻る気もしなかったので部屋にあるヘミングウェイ関連の本をパラパラめくって時間を過ごす。ことに、高見浩さんが訳した同短編の訳文をチェックさせてもらいそのきれいな仕上がりに思わず感動をおぼえる。そして『ヘミングウェイで学ぶ英文法』などを読み返し、10時になると日中の仕事の疲れがドッと出たのか眠りに就いた。

今朝はそんなわけで7時に目が覚めて、シャワールームにそのまま直行して熱めのお湯でシャワーを浴びてそれから昨日着ていた服と下着を洗濯機で洗濯する。その後7時50分から英会話のZOOMミーティングに参加する。毎週日曜日はべつだん話題を設けないでそれぞれが思ったことを話し合う「フリーカンバセーション」の日。まずはぼくがZOOMの背景画像として使っている絵の話にいたり、そこから「これは『ツイン・ピークス』に影響されました。アメリカの刑事物のドラマで……」といった話をする。すると、アメリカから参加された方(俗に言うネイティブ・スピーカー)が同名のレストランがあるということをシェアしてくださって、それがおもしろかった。

そのアメリカから参加された方は日本語の発音のむずかしさについて話されて、それでも日本語を学んでひいては日本全国を旅したいのだそう。彼の流暢な英語に学ばされつつ、ふとぼくの典型的な「侍イングリッシュ(いかにも日本人らしい英語のこと)」はどう聞こえているんだろうと思った。なんにせよ、卑屈になってはいけない。ただ等身大の自分自身を受け容れることもだいじで、両者のあいだでバランスを取ることもむずかしい。そんなことを思わされた「夜と朝」のひとコマだった。

その後朝食を摂って、それから着替えて部屋を出る。さっきも書いた通り10時より英語研究会の会合が防災センターでおこなわれるので、そのために9時に会場近くにあるイオンに着いてそこであらためて英文のチェックをする。開く余裕なんてないと思ったものの、話の種くらいにはなるだろうと思って前述した高見浩さんの訳業が結晶した『ヘミングウェイ全短編2』の文庫本を持参した。そして10時に会場に着く。そこで、すこしずつ英文を読み解いていく。

ぼくの番になり、司会進行される方にうながされて読み進めたもののやはりというか――ぼく自身の英語ならびに日本語の読解力がいたらないせいか――ヘミングウェイが的確な言葉で怜悧に狩りのキャンプの様子および人物造形を描写している箇所にぶつかってしまい、それがコンマを駆使して短く区切った箇所が並ぶところだったので読みにくさを覚える。この資料を用意された方がじっさいに情景がどのようなものなのか、そこにあったホワイトボードを駆使して説明されてそれがなるほどと思った。いや、修行が足りないということだなと恥じてしまう。

ただ、これは言い訳になるがヘミングウェイは平易な英文を書く人だが「甘い」書き手ではない(つまり、すべてをあからさまに情報開示してくれる作家ではない)。注意して読まないとささいな言葉遣いや仕草の中にある主人公たちの微妙な力学や、あるいは語り落とされていることがらを理解できないまま終わってしまう。それもふくめて、この英文を今日の体験を糧に読み直して楽しむことが肝要だなと思った。いや、今日はつらい日だった。でも同時に意義ある日でもあると思った。

12時頃会合が終わり、その後図書館に向かう。そこで村井理子『ある翻訳家の取り憑かれた日常2』を借り、そしてグループホーム本家におもむく。ただ、管理者の方が外出されていたのでいったん自室にもどってそして昼食を食べて、そして昼寝をする。その後2時半頃ふたたび着替えて外に出て(汗を吸ったシャツに着替え直すのは気持ち悪く骨だったが、だからといってパジャマのまま出歩くわけにもいくまい)、そして本家で今週分のこづかいをもらう。それから歯医者に行き、そこで治療をしてもらった。

治療が終わったのがだいたい午後3時半で、その後6時の夕食時間まで間がある。いったいどう過ごしたらいいか迷ったものの、もちろんなにか読んで過ごそうと思ったのだけれど読みはじめたらあくびが止まらなくなって集中できない。また眠るべきかと思ったり……それで、ふとさいきん絵を描いていなかったことを思い出し、するとともかくもカンバス(ぼくが使っているダイソーで買い求めたノートブック)に「丸」「円」を描くことを考えて、そのアイデアに急かされるようにして実行してみた。その「丸」「円」が、紆余曲折あってこけしやだるまの頭になって1枚の絵ができあがった。XTC『オレンジズ&レモンズ』を聴きながら描いたのだけれど、日本人らしくかつ童心が籠もった絵になっただろうか?

その後6時になり夕食を摂る。そして、先に書いた村井理子さんの日記を読んでみたりしてともかくも時間を過ごす。時間があっという間に過ぎる気がする……51年も生きていればそんなふうにして日々の流れに慣れてしまい、むしろマンネリさえ感じられるのがあたりまえなのかもしれない。ことにぼくのばあい発達障害ゆえの規律正しさ(ワンパターンさ)を求めてしまう性格もあるのだろうか。こんな夏をしのぐ本を読むにはどうしたらいいか、こんな激動の時代をしのぐ本は……やはり『1984』の続きを虚心坦懐に読もうか。たとえば佐伯一麦さんの私小説(あれらは一茎の葦あるいは麦たる「私」の底力を教えてくれる作品のはずだ)を読んだりしつつ。

20260801

昨日の夜は日記を書き終えると10時を過ぎてしまっていて、疲れも溜まっていたのではやばやと眠ってしまった。それで今朝はいつも通り7時に起きるかと思いきや、いったんは7時頃起きたのだけれどうっかりしてまた寝入ってしまい気がつくと8時を過ぎていた。なので、7時50分からの英会話のZOOMミーティングには間に合わない。ならばそれはそれでしょうがないので、今日は英会話はあきらめてしまうことにした。ただいつもの朝のシャワーは浴びておかないとなんだか昨日の汗が肌に貼り付いているようで気持ち悪い。洗濯機を回すのもあきらめてシャワーと洗髪だけを熱めのお湯で済ませることにした。

昨日ジョージ・オーウェル『1984』の原書を、途中止まっていたところから読みはじめてそれがなかなかおもしろかったのでそれで日本語訳でも読み直してみたいと考えて、持っている角川文庫をカバンの中に入れる。そして、いったんは岩波文庫で読んでみておもしろさがいまいちわからないまま終わった(ぼくのイギリス文化・イギリス文学の知識の欠如ゆえだろう)オーウェルの評論をふたたび読み直してみたいと考えて、こんどは光文社古典新訳文庫『あなたと原爆』を図書館で借りることにした。はからずも(?)オーウェルづいている日になってしまったのだけれど、読めるようならこのいきおいを借りてマーガレット・アトウッド『侍女の物語』なんか読んでみたい。どうなることやら。

毎週土曜日はぼくの住まわせてもらっているグループホームの朝食はパンといちごジャム、そしてスープとゆで卵とバナナが出る。それを食べた後に服を着替えて部屋を出て、そして9時過ぎにイオンに着くようにバイクで移動する。そしてそのイオンのサービスカウンターにて英語メモを書きつける。昨日、ちょっとしたことがあってXで議論をしてしまってそのことが頭のどこかにこびりついていたのだった。けっきょくおたがい納得するところまではいかなかったものの、それでもぼく自身マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』『実力も運のうち』を読み返したくなったという意味では意義深い議論だったと思う。そのことを書きつける。

ただその英語メモの後もぼく自身の中にもやもやした気持ちがあってそれがすっきりしないというのはあって、今日は10時から始業の早番勤務だったのだけれどずっとその議論のこと、ひいてはXにおける(ひいては、ソーシャルメディア全般における)コミュニケーションのあり方について考えてしまっていた。知られるようにあまりにも大量の情報が眼前を流れ去っていくXにおいて、いちいち人のポストに反応したりあるいは逆に他人のポストにきりきり舞いしたりせずに「正気」「安定」を保つにはどうしたらいいのか、といったことを考えたのだ。

1時に休憩時間をもらい、そして会社の休憩室でトンカツ弁当を食べ終えて後『1984』(日本語訳のほう)を読もうとするもはかどらない。まだ自分の中で書ききれていないことがらがあるようで、それをぼくがふだんからズボンの前ポケットに突っ込んでいるマルマンのメモパッドに英語で書きつけていく。どうしたら「正気」を保てるのか……もちろんこれはある意味ひじょうに傲慢な態度でもありうるだろう。「自分こそが『正気』だ」と言明することはすなわち「あなた(読者・相手)は『おかしい』」と言明することにもなりかねないからだ。「正気」をどのように定義するかも繊細な線引き・策定が必要となるはずだ。

過去、ぼくは「自分こそが『正気』だ」と言いつのることに痛痒を感じていなかった。自分こそが正しい・正義だ……そう信じられたのはとりもなおさず誰かの矛盾点や弱点を見つけられて、それだけではなくそれを一方的にこき下ろす・あげつらうポジションを確保できていたからだ。相手が間違いであると批判することが同時に自分は正しいと立証できる……そんな、いま思えば実に危なっかしい論理にハマっていたことを思い返してしまう。正義のこわさはその時期のことを思えば容易に理解できる。そんなことを英語メモに書きつけていった。

いま、ぼくは正気なのか狂人なのか。それが自分でもわからない。自分1人だけで云々していても答えの出る問題ではないと思う。自分の正気を知るためにも、あるいは正気を保ちつづけるためにも他者は必要となる。だが、その他者(いまならAIでもいいが)はほんとうに信用が置けるのか。狂気を共有する者たち同士が暴走していくケースもありうる(オウム真理教の事件を思い出してしまう)。それについて考えているとふと、昨日「なぜ自分は本を読むのか」「なぜ物語に心惹かれるのか」といったことがらについて考えたことを思い出した。いったいなぜなのか……そこまで考えたら疲れたので炭酸水を飲んで疲労を回復させた。

5時に仕事が終わり、その足で図書館に向かう。予約していたオーウェル『あなたと原爆』はまだ届いていなかったので、おなじオーウェルの代表作『動物農園』(吉田健一訳。『動物農場』というタイトルが一般的らしい)を借りた。実を言うとこの本のことは知っていたが「説教くさそう」という理由で読まず嫌いを決め込んでいたのだった。でも、さすがに読まないわけにはいくまい。どんな話なのか楽しみだ。

帰宅後、6時に夕食を摂る。その後、『1984』の原書を読み進める。しかしなかなか進まない。それで部屋の明かりを消していったん横になり、瞑想をして頭を休める。芝居がかった話になるが、今日は仕事を真剣にしすぎてそのせいで頭を使いすぎてしまったから切り替えがうまくいかないのではないか、と思ったのだ(こうしたことをこころみるぼく自身はけっして「普通」の人間ではないかもしれない)。その後あらためて『1984』や、あるいはジョージ・オーウェルの時評集『気の向くままに』(図書館で借りた)を読んだりして過ごす。

それにも飽きるとDiscordやMeWeにて英語でチャットをして気散じをこころみる。ジョージ・オーウェルを読み終えたら次はなににしようか、とあれこれ考えてみる。たとえばヴァージニア・ウルフはどうだろうとか、さっきも書いたマーガレット・アトウッドとか……ぼくの英語力では英語の原書はまだまだハードルが高いが、それでも(いや、あるいは「だからこそ」)じっくり取り組む価値があるのだろうと思った。英語力の向上に役立てばいいと思うが、心配なのはこうやって日々の暮らしの疲れによってせっかく得た「流れ」「ノリ」が止まってしまうこと。あせらずじっくり、『1984』の原書購読に取り組みたい。

20260731

昨日は日記にも書いた通り、9時頃からひさびさにジョージ・オーウェル『1984』の原書を読みはじめてそして11時の消灯時間まで読みふけってしまった。もちろんぼくの英語力ではまだまだ歯が立たない1冊だが、それでも長らくブランクを置いて読むオーウェルの英文はここちよくわからないところも多々ありながら頭に入ってきた。もちろんそれまで読み込んでいた阿久津隆さんの日記もおもしろかったのだけれど、日本語を読みすぎて脳が飽和状態(?)に達していたと言えるのかもしれなかった。それで『1984』の独自のリズムを楽しんだ。

なにかいい音楽を聴きながら読めないかと思い、オウテカやレディオヘッドがまず頭に浮かぶもののどうもピンとこない。いや、これはもちろん気分の問題なのだけれどもっと硬質なドローンはないものかと思い、それでSpotifyを調べていたところHirotaka Shirotsubakiというミュージシャンの音源にたどりつき、それが実に静謐なドローンあるいはアンビエントだったのでこれをBGMとして『1984』を読むことにした。それも飽きると図書館で借りていた『ジョージ・オーウェル「一九八四年」を読む』を繙き読んでみて、そして30日は終わった。

暑いせいかそれとも歳のせいか、今朝は2度ほど小用を足すために起きてしまいそしてそのたびに寝直す。7時に目が覚めて、それからはいつも通りシャワールームに直行して熱めのお湯でシャワーを浴びて、その後昨日着ていた服と下着を洗濯機で洗濯する。それから7時50分から英会話のZOOMミーティングに参加する。今日ブレイクアウトルームに集ったのはぼくを入れて3人で、さだめられたDMM英会話の記事(奈良の鹿の数について)を元にあれこれ話す。その後は週末のスケジュールを訊かれたので(訊かれてはじめて、今日が俗に言う『華金』であることを思い知った)、日曜日の英語研究会の会合でヘミングウェイの短編小説を原文で読むことを話した。

その後朝食を摂って、それから着替えて部屋を出る。今日は遅番勤務の日で、いつも通りグループホーム本家におもむきそこで時間を過ごさせてもらう。ただ、今日は10時から会議があるとのことでゆっくりはできなかった。なにはともあれ『1984』を読み、それにも飽きると英語メモを書く。10時になるとその本家を出て町内にある防災センターに行き、そこで読書の続きをはじめる。『1984』、そして『ジョージ・オーウェル「一九八四年」を読む』をかわりばんこに読む。後者に関してはぼく自身まだまだ不勉強にして展開されている議論についていけないところが多々あり、『1984』精読の必要性を感じた。

そして、どこかでこの本に寄稿している方々の読みにかんしてぼく自身が「嫉妬」を覚えたというのも書いておいたほうがいいかもしれない。レベルの違いを感じたというか……いや、相手はプロだからとうぜんだけどそれでも「このレベルまで読み込めたらすごいだろうなあ」と思ってしまい、ただそれはそれで後ろ暗い嫉妬ではなくぼく自身が虚心坦懐にこの作品と向き合う契機を作ってもらえたようにも思った。とりわけ、秦邦生さんの論考が目を引いた。イタロ・カルヴィーノを引いてこの『1984』を読むことの意義を説いているあたりだ。

そこでは、時事問題の喧騒から身を離し古典を読みふけるスタンスが批判されている。古典を読むことはけっして現在進行型の問題から背を向けることを意味せず、むしろ喧騒の中で自分の立ち位置を見失わないようにするためにも必要なのだということが書いてあった。これはさいきんのぼく自身のSNS疲れを言い当てられたようで(だからその反動でそれこそ引きこもって、高みの見物を決め込んでオーウェルを読みふけっていたところもあったので)ドキッとした。たしかにオーウェルから学ばせてもらっていることはいまの世の中でもますます活きてくるだろうな、と思う。

これにかんして別の角度から考えることはできないか。ぼくは『1984』を日本語版で1度か2度通読しているが、けっして「好きな小説」「愛読書」ではない。バッドエンドで終わるし、かならずしもカタルシスを約束してくれる本だとも思えない。ただそれでも『1984』の再読にいどんでいることは、なにかぼくの中でいわく言いがたい思いがあってのことだろう。あるいはそれこそウィンストン・スミスばりにぼくが日記を書いていることも、英語であれこれメモを書いたり本を読んだりすることも、うまくは言えないけれど共通した問題意識でつながっているように思う。思考停止を選ばず、自分の頭を使って考え抜きたいというのか……。

ぼくはYouTubeやTikTokなどに代表される動画中心のコンテンツをかならずしも批判しない。Xにしても愛憎半ばする気持ちをかかえている。ただ、それでもぼくが本を読みふけってそこからじっくり考えてしまうのはたぶんに時間をかけて・納得行くかたちで自分の腑にものごとを落とし込まないと気が済まない人間だからなのだろうと思う。そんなことを考えた。

それが一段落すると、日曜日に読むヘミングウェイの短編小説の英文をチェックする。ここでもオーウェルのことを思い出す。悪名高き(だが、考えさせる魔性の強度をはらむ)ニュースピークの原理だ。ぼくは言葉が単一のものになって、すべてが単純化されてわかりやすくなった社会を夢見たりしない。英語は学ぶけれど、それでも皆が皆ひとしく英語を話すようになればいいなんて夢見たりしない。日本語の強度を称揚したい気持ちがどこかにある……。

1時より仕事に入る。そして、5時に休憩時間をもらって休憩室でくつろぐ。ふと、またしても『ジョージ・オーウェル「一九八四年」を読む』のことを思い出した。この本におさめられている論考がオーウェルにとっての愛国心(パトリオティズム)を語っており、それについて考えるうちにぼく自身の愛国心をも考えさせられたのだった。ぼくは過去、この国が大嫌いだった。なんでもかんでも欧米のほうがすばらしい(というか、あっちが「本場」だとさえ)思っていた。だから日本的なものに回帰していく思考を反動的だと思って忌み嫌っていた。

ただ、いまは違う考え方をいだく。ぼくの思考は日本語によって作られている。それにこの国の食文化や文学、アニメや漫画といった文化によっても価値観を形成させられてきた。それはオーウェルが紅茶の中に見出したイギリス人気質とおなじようなものではなかったかと思う。ならば、その骨の髄に刷り込まれたDNA的な気質を丸ごと否定できるものか……そうした問いにも思いが至る。この『1984』を読む作業、かなりやっかいなものになるかもしれない。

20260730

昨日は日記を書き終えてからしばらく阿久津隆『読書の日記』を読んだり、前にも書いた11月半ばにおこなう予定の発達障害にかんするプレゼンテーションについて考えたりしていたのだけれど、なんだか9時をまわったくらいに早々と眠気が襲ってきた。よくわからなかったけれどやはり昨日の睡眠不足がたたってのことだろうか。発達障害者はルーティンをくずすことをけっして良しとはしない性格を持つと言われているのだけれど、こんかいは別でいつも11時に眠るルーティンをくずして10時にあっさり眠剤と頓服薬を飲んで眠ってしまうことにした。それで――いつも通り小用を足すために起きたりしつつ――今朝は7時に起きたので、合計9時間眠ったことになった。

起きてからはこれまたいつも通りシャワールームに行き、そこで熱めのお湯でシャワーを浴びる。その後昨日着ていた服と下着を洗濯機で洗濯して、7時50分から英会話のZOOMミーティングに参加する。今日の話題はスタジオジブリがリリースする新作の短編アニメーションについてで、ブレイクアウトルームに集った方々とぼくの3人で話をする。ただ、今日ははるばるフィリピンからこのミーティングに参加しておられる方のお話を聞かせてもらう回になった。ぼくよりおそらく歳上のその日本語教師の方が、自分のキャリアをさらに磨くためにフィリピンに語学留学されている……そんなお話が印象的だった。「Let's try」とおっしゃったのが記憶に残っている。ほかにお話ししたことと言えば、昨今の暑さについて(エアコンをつけて眠っているかどうか)くらいか。ジブリアニメの話はあまりできなかった。

その後、朝食を摂ってそして着替えて部屋を出る。9時ぐらいにイオンに着いて、そこでペットボトルのコーヒーを買い求めて飲む。そして英語メモを書きつけていく。先に書いたプレゼンテーションのことやあるいは昨日原語で読みはじめたヘミングウェイの短編小説のことなど。天気予報によると今日の気温は最高39℃くらいまで上がるということだったが、はやくも朝の時間に暑さに参ってしまいそうになる。さいわいにもぼくの職場はエアコンが効いたところなので熱中症の心配はそんなにない(ただ、2年ほど前に仕事中にめまいを感じて横になったことがあった。あれは親知らず抜歯後の体調不良だったのだろうか?)。

1時より休憩時間に入り、休憩室でタコライスをいただいた後にまた英語メモを書いていく。今朝考えていたことというのは――われながらしつこい性格だなと思うのだけれど――Xなどのソーシャルメディアについてで、とりわけ(いまのところ議論は沈静化したようだが)マッシヴ・アタックについて語られた意見のいくつかが目に余るものだったので「Xのアカウントはもう削除したほうがいいのかな」と思ったのだった。あるいはいまだと『みいちゃんと山田さん』をめぐる議論にもおなじような「売り言葉に買い言葉」的な意見が見られる。

そうした意見にいちいち反応していては神経をすり減らすだけではある。だが、たとえばマッシヴ・アタックについて「音楽通」の立場からパンクやレゲエやダブの文化に言及して、「そうした音楽を聴いていないやつはダメだ」といった立論をふりかざしている人を見るとげんなりする。これはぼく自身の怠慢を棚に上げて言うが、たしかにブリストルの文化や引いてはイギリスの文化がはらむ反骨精神を――たとえばバンクシーの反骨精神のあらわれとからめたりしつつ――知っていたほうがおもしろいのはたしかだろう。だが、知らないことがあってあたりまえではないだろうか。知らない人間が気軽に「カッコいい」と語ることは罪なのか。

そんなことを考えていると、突然のことながらいったいどうしてXなどの議論がむなしく感じられるようになったのか見えてきたと思った。彼らはスキのない「正しさ」で武装する。そして、完膚なきまでに相手を叩きのめすこと(やりこめようとすること)に汲々とする。そこには議論を通して自分自身が変わろうという柔軟さがないように映った……こう書いてふと思った。いや、たしかにこれがそうかもしれないとしても、ならば「ぼく自身は『変わる』姿勢、『変化を恐れない』姿勢を持っていると言えるだろうか」と。永井怜衣さんの本で読んだと記憶しているが、そうした「自分自身が変化することを受け容れる」という態度を保ちつづけることは難易度が高いのではないか……。

そこまで考えて、そしていったん書いたことを脇においてフィッシュマンズの『若いながらも歴史あり』を聴きはじめる。フィッシュマンズについても、過去に音楽マニア的な人から「フィッシュマンズが好きと言いながら、スライ&ザ・ファミリー・ストーンを聴いてないのか」「クラッシュを聴いてないのか」と叱られたりしたこともあったっけ。そんなことを思い出す。たしかに、フィッシュマンズのルーツをたどってデ・ラ・ソウルやGラブ&スペシャル・ソースなんかを聴くようになったという意味では感謝しているんだけれど……世知辛い世の中だ。なら、佐藤伸治さんが好きだったバンドを根こそぎ聴いていないといけないのか。どうなんだろう?

5時に仕事が終わり、そして早々に帰宅する。今日はなんだか考えすぎたのかぐったり疲れてしまった。けっきょく阿久津隆さんの『読書の日記』第3巻も開かずじまい。それで、6時にグループホームの夕食時間になってドライカレーを食べた後、『読書の日記』を開くもなんだか気が乗らない。それで、今日は頭を使いすぎたかと反省した。その後どうするか迷ったものの、昨日おとといとぜんぜん開いていなかったことを思い出す。もうウィンストン・スミスがどうなったのかまったく思い出せないまま、それでもオウテカを聴きつつジョージ・オーウェル『1984』の英語の原書を繙いて読みはじめるとなんだかおもしろい。さすがにスイスイ、というわけにはいかないにせよ英語が新鮮に感じられる。

思えば多和田葉子さんや阿久津隆さんといった方々の日本語に耽溺してしまっていたので、それで英語のリズムや構造が新鮮に感じられる感受性が戻ってきたということかもしれない。ならば、この「ノリ」に沿ってもっと読み進めていきたいと思った。読めるようならひそかに買い求めていたオーウェルのエッセイ集(英語)も読めたら……いやもちろん英語を読みすぎるとまた疲れて日本語に戻りたくなることもあるかもしれないので、油断はならないのだけれど。こうした揺れ動きに慣れていくのが英語を読むうえでの「王道」――ないしはぼくが歩むべき「邪道」――なのかもしれない?