跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/04/26 BGM: Number Girl - 黒目がちな少女

今日は遅番だった。今朝、例によって考えごとの時間を仲正昌樹『〈リア充〉幻想』という本をお伴に過ごす。これは例によってぼくの個人の感想の域を出ないスットコドッコイな読みということになるが、この本は軽い語り口を備えマイルドな味わいを醸し出していて、実に平易で読みやすい。でも中身は侮りがたい、挑発的な主張がたしかな「毒」にして「薬効」として備わっていてこちらにその切っ先を突きつけてくる本だと唸ってしまった。

この本を手に取ろうと思ったきっかけというのは、ふと最近仕事中に「ぼくの人生とはいったいなんだったのか」と思ってしまいそこから秋葉原の無差別殺人のことを思い出してしまったからだった。2008年に起きたあの痛ましい、無垢の人たちが命を失わなければならなかった事件だ。仲正のこの本では彼の犯行について印象や時代風景が分析されていく。だが、そうした分析を読み進めていけば行くほどこの本の分析の射程は「このぼくの生きづらさ」にも迫っているとも思った。まさにあの犯人が非正規雇用の身であがいてネットに救いを求めたように(そして果たせなかったように)、ぼくもまた過去に癒やしがたい大欲というか強欲を抱えて苦しんでいたからだ。いわゆる「承認欲求」「かまってちゃん」な心理というやつであった。

どうやったら他人にこの社会の一員として認めてもらえるのか。どうやったら一人前の人間として受け容れてもらえるのか。そうした「承認欲求」……まだ若くてとても愚鈍だった頃、ぼくはあがいた挙げ句そんな欲望をドブに捨ててひとりぼっちで嫌われ者として破れかぶれで生き延びる肚をくくろうとまで思った。そんな欲望を抱えていても結局「誰からも好かれる」なんてことは幻想でしかないし、それにぼくは(ぼくの性格に問題があるせいで)とりわけ嫌われ者として扱われることが多かったから。だから「友だちなんかいらない」と思い、書物と音楽のソースに触れてぼっちで生きることを決めたりもしたのだった。そうやってぼっちでタフに生き、ニーチェなんかわかるわけもないのに「超人」を気取ろうとして。でも、こんな考え方こそ非現実的な妄想であり、もっと言えば不可能なのだった。

日記にも何度も記してきたとおり、ぼくの人生は40で変わった。リアルで、ひょんなことからいまのジョブコーチとお会いして、そしてその他にもほんとうに心を許せる(だが同時に厳しくも優しい、真に信頼できる「諫言」「苦言」を下さる)友だちができたりもして……そしてその後、ぼくは英語をふたたび「昔取った杵柄」で学び直し始めたりもしたのだった。こんなことはまったくもって予測できるわけもなかったが、俗に言う「コミュニケーション・スキル」というやつもそんな活動を通してちょっとばかりは向上したのかもしれない。頑固な、つめたい氷のような偏見が他の人の親身で寛大な態度で溶かされていって心がオープンになったというか。

今日はジョブコーチ面談があり、ジョブコーチとぼくは職場やぼく個人の問題についていろいろ話し合った。不眠、グループホームの新しいスタッフについて、そしてぼくの「認知の歪み」について。ミーティングが終わって、そのジョブコーチの方が「いまから、少しずつ定年後のライフプランについて考えていくのもいいですね」とおっしゃった。そうした考えはたしかにこれからの人生を生きるのに必要だろう。でも……そんなポジティブで建設的な心持ちを持って生きていくのがとてもしんどかったこと、鬱を抱えて地べたをはいずり回ってそれこそ冒頭で書いた秋葉原無差別殺人の犯人のごとく「あいつら全員痛めつけないと死んでも死にきれない」と身勝手な憤りに燃えていたことを思い出した。ああ、それを思うとたしかにぼくは変わることができたのだと思ったのだった……。

2024/04/26 English

SAPPUKEI 15th Anniversary Edition

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BGM: Number Girl - 黒目がちな少女

I worked late today. This morning, I read Masaki Nakamasa's book "Normie Illusion [仲正昌樹『〈リア充〉幻想』]". In my opinion, this book has a light and mild narrative therefore easy to understand, but also must have provoking content to think about.

I was interested in reading it because I was recently reminded of an "ultra" cruel criminal. Once, he killed many innocent people brutally in Akihabara in 2008 (so-called "Akihabara massacre"). This Nakamasa's book tells about him. But, in a way, this also explains how hard MY life can be. For example, as the criminal struggled, I had to feel a huge, greedy desire to be accepted by others as a fellow.

Yes... How can I be accepted as a member by others? In a special term, we say it "esteem needs" or "need for approval". Once, when I was young and ignorant, I tried to deny that kind of desire for approval in me because I thought that desire was too greedy and unreal. In other words, I tried to think that I needed no friend anymore - with plenty of sources of books and music, I had to live this life toughly to become a super person. But, as you might already notice, that's surely an unreal idea.

As I have written in this journal, my life actually changed at 40 when I met my job coach and also various friends in my real life. After that, I started learning English again to make friends and also to learn various things. Although I could never expect this, my skill/ability of communication might have improved through these activities. My stubborn, very "icy" bias was melted by others' intimate attitudes, which have opened mine.

Today my job coach and I had a meeting about my job. We discussed some topics such as insomnia, the new staff of my group home, and my distorted automatic thinking style (in a special term, we say "cognitive distortions"). After that meeting, she said that I could build my whole life's plan toward the future from now. Of course, I need to think about my life's plan to live more steadily... Once, I had been too depressed to live this life with a positive, creative mind. But now, my life or my mind seems actually changed enough to live steadily.

2024/04/25 BGM: Tokyo No.1 Soul Set - ロマンティック伝説

いまに至るも……プライベートでたしかにいまではたくさん友だちがいるのはわかっていても、それでもぼくはときおり孤独を感じてしまう。たぶんそれはぼくが心のどこかでこの世界に対して疑いを向けてしまい、疑心暗鬼になってしまうからなのだろう。でも、だとしたらそれは理由がぼくの中のそうした猜疑心ゆえのことであって、なにもかもぼくのせいということになる。そうなのだろうか。

その昔、ぼくはあの当時クラスメイトだった人たちに自分のトラウマ的な出来事について打ち明けたことがあった。するとある人がこう言った。「深いね。でも、誰だって思い出したくないことなんてあるもんだよ」。こんなことを言われて、崖から突き落とされたようなつらい気持ちになってしまったことをいまでも思い出す。いや、実にうんこみたいなコメントだ……とは言わない。逆だ。皮肉ではなく、彼のコメントは正直で親密な、親身な姿勢から出たものであることを疑わない。そして、部分的にはその彼の真理にはうなずけるところもある。というのはこの日記でさんざん書きなぐってきたことというのは発達障害者には実に「あるある」なことばかりだからだ。でも、彼の意見を反芻してぼくは書く。そんなこと言われたって、いったいどうすればいいっていうんだろう。

いろんなこと(あらゆること?)を厳格に・論理的に考えようとしてそれこそ「闇堕ち」しそうなほど頑固なわからず屋になってるんじゃないか……なんてことを考える(でも言っておきたい。いつだってぼくはこの皮膚感覚・生理感覚から論理を立ち上げている)。はてさて、いったいぼくは生まれついての哲学者なのか不惑をすぎて哲学を始めた遅咲きなのか。足あとを振り返ると、まあこんな発達障害的なキャラクターがあってぼくは孤独にならざるをえなかったのかなあ、いまもそうだったりして……なんて思う。

過去にぼくはもう、友だちを持つことを否定し、あきらめたいと思ったりもした。ありていに言えばそんなふうに親身になってくれる人が現れるなんてことが起こるとはまったく信じられなかったからだ。当時、そんな惨めったらしい時期(ど田舎で過ごした、「地獄の季節」としての10代)誰もがぼくを嫌って、悪意を以て接してくるとばかり思っていた。いや、「いま」なら別の可能性を考えつく。書いてきたように、そんなふうに考えてしまうのはぼくの中の猜疑心や被害妄想のせいということだってありえたのだ。極論を言えばぼくの内面の問題だったということだ。だから、ぼくはひとりぼっちで終わりなき「心の戦争」を戦わざるをえなかったのだ。

これはまた別の視点ということになるが、2つのライフハックのあり方があると思う。1つは、そんなふうな歪んだ感覚や妄想を文字通り「呑み込む」こと、肚に「溜める」ことだ。そして沈黙を貫く。もう1つはまったくもって対照的に、それこそ公に「吐き出す」ことだ。考えれば考えるほどベストソリューション(最適解)がわからなくなるが、どっちの方法もいいところがありしたがってオーケーなんだろうと思う。つまり、どっちが悪いわけでもないので白黒つけられることじゃないというか。だからあとはぼくは心の中の勘というか本能のつぶやき・ささやきに耳を傾けて信じた道を行くのみだ。

2024/04/25 English

BGM: Tokyo No.1 Soul Set - ロマンティック伝説

Even now - although I have many friends in my private life certainly, sometimes I feel a certain concept of "solitary". Maybe because somewhere in my mind I must have a certain doubt toward this world. But then, it can mean that the reason is because of my doubt, therefore everything is my fault - is it true?

Once, when I had taught my traumatic events to ex-classmates a while ago. Then a guy said "Everybody must have had such a traumatic event", and it made me terribly disappointed. I won't say his comment is bullshit - Yes, he might have taught me his honest, intimate opinion. And I accept his truth partly. The stories I have been writing in these journals can be quite orthodox ones of autistic guys. But, looking at his opinions I say this. How the fuck his serious, bloody honesty of that opinion can work for me?

I accept that I am getting to be so stubborn to keep on trying to think about various issues (literally everything) rigoristic, even though my logical thinking always starts from this honest feeling. I can't see whether I am a natural-born philosopher or a slow learner who started philosophy at 40. Looking at my footsteps - they actually tell me that maybe I can be a solitary one because of this character - an autistic guy.

Once, I tried to deny or give up any hope of having friends in this life because I couldn't believe that any intimate friends could appear in front of me - at that terrible period (especially, my teenage days in a rural town), in my eyes everybody must have had harmful intention for me. Yes, NOW I can think of another possibility about that - as I have written, because of the doubt in me (therefore it can be MY problem) I have had to struggle with that endless inner war.

This is another perspective of mine: There seem at least two kinds of lifehacks. One of them is to try to "digest" or "swallow" these distorted feelings/delusions within me and stay quiet. And another is to try to confess them in public. How? How can I do to find a good solution? I can't see. Each way must have its great character therefore both ways are evenly Okay I guess. Then, I try to listen to my inner child's murmuring.

2024/04/24 BGM: Pavement - Range Life

今日は休日だった。今朝、毎朝恒例のZoomの英語関係のミーティングでぼく自身がかれこれ9年間断酒を続けてきたことを話す。するとあるメンバーがそのことで「意志が強いんですね」と言って下さった。もちろんこのコメントはありがたいものだが、でも心のどこかでぼくは「強いのかなあ」と疑ってしまう。ぼくの見解からすると、ぼくはそんなに強くはない。トリッキーな言い方になるが、強くないから酒に溺れたんだろうとさえ思う。

過去にこの弱さをずいぶん恥じたものだ。だから「なんでこんなに弱っちいんだろう」と自分を責め続けもしたのだった。「もっと強くならなくちゃ、タフにならなくちゃ」と……ぼくはセクシャリティとして男なので、こんなことはそれこそ噴飯物というやつだろうがそれでもぼくは自分のめそめそした性格を脱してより強くなることこそ「成長」だと信じていたのだった。それが、ぼくが自分のことを負け犬だと信じ込んで生きていた原因の1つなんだろうと思う。あるいは自分のことを両親が為した文字通りの「失敗」だとさえ思った理由というか。

いまだってぼくは自分がそんなに強い人間だとは思えない。まったくもって思えない。思えてたまるか……と衝動買いしてしまった西部邁の文庫本を見つめてつぶやいてしまう。でも、アルコールを断ってからそれでもぼくの心持ちは変わったかなとも思う。いまはぼくはそんなめそめそした自分を受け容れる。というのは、それがぼくでしかないからであって、したがってどうしようもないからだ。言い換えれば、自分の人生を振り返ってみるとどこかの地点でこの自分を受け容れ、愛するにはどうしたらいいのかなと肚をくくれるようになったのかもしれない。この書きもののように、ぼくは自分の個人史を他人と分有(シェア)する営みを始めてきた。学校での孤絶(いじめ)、発達障害、アルコール依存、などなど。

そんなふうにして他人に自分の話を打ち明けていくうちに、こんな考えが芽生えてきた。過去、ぼくはそれこそ自分のことを犠牲者意識を以て眺めていた。こんな困難だらけの人生だから自分の好き勝手な生き方、気ままな生き方ができず実に生きにくい思いをしないといけないのだ、と。でもいまはそれでもそんな困難を受け容れてそれなりに、できる限り陽気に生きていきたいとも思っている。そして、この世界で完全無欠な「勝者」になるという妄想をどうあきらめたらいいのかについても考えるようになった。というのは、そんな妄想こそがプレッシャーになり、引いては死まで考えさせ追い詰めさせる原因にちがいないからだ。

こんなことについて考えると、ぼくは小沢健二の音楽を介して知った偉大なバンドであるスティーリー・ダンの『Aja』というアルバムのことを思い返してしまう。とりわけこの名盤には胸に突き刺さる名曲「ディーコン・ブルース」が収められている。この曲はある人物が人生を敗者のポジションから眺めたものだ。ぼくは英語ネイティブではないが、この曲は永遠の名曲ではないかとさえ思う。いまだって、ぼくはいろんなものを買い込んだり食い尽くしたりしたいというか「ゲット」したいと欲をふとらせているのはたしかだ(むずかしい表現をするが、そうしてこの競争社会・消費社会に参加するためだ)。でも、ぼくはある意味ではそうして「半分」だけではあるにしても俗に言う「スローライフ」に足を突っ込んで生きているとも言えるのかなとも思う。

2024/04/24 English

犬は吠えるがキャラバンは進む

犬は吠えるがキャラバンは進む

  • アーティスト:小沢健二
  • EMIミュージック・ジャパン
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BGM: Pavement - Range Life

I had a day off today. This morning, on the daily English meeting on Zoom, I shared with the members the fact that I have quit alcohol for about 9 years. Then, another member said to me "You're strong!". Of course, this honest comment certainly embraced me, but somewhere in my mind, I doubted whether I could be strong. In my opinion, my will must not be so strong - in a way, my will must be so weak that it can have made me drink a lot.

Once, I had been ashamed of this weakness in me, therefore I even blamed myself so much as "Why can't I become a strong person?" From my male sexuality, although maybe you might laugh at this, I strictly believed that "being strong" must be better than my truly messy character. That's one reason I even thought I must have been a loser (or a literal "mistake" my parents had made).

Even now, I must say that I am not such a strong guy - but certainly, after quitting alcohol my mind has been changed. Now, I accept this messy self - because that's me. In other words, from somewhere in my life history I started having an interest in accepting (and even loving) this myself. I started sharing my personal history with other members like these writings. Solitary in schools, autism, alcohol addiction, and so on.

Through sharing my stories with others, an idea has been born in me. Once, I thought I must have been a victim because various terrible hardships have been disturbing my freedom. But, now I accept those hardships to live this weird, funny life as positively as I can - and also, am thinking how to give up the delusion of becoming an ultimate winner in this world because it can cause a certain pressure which must push me away to death.

Thinking this, I enjoyed a great album "Aja" by Steely Dan. In this album, you can enjoy the great song "Deacon Blues", which describes our life from the position of a loser (although I am not a native English speaker, I can understand this as an everlasting one). Even now, somewhere in my mind, I must have a certain desire that certainly pushes me to get various things (in a difficult expression, to participate in this competitive consuming society). But also, I have been already living a slow life.

2024/04/23 BGM: Steely Dan - Deacon Blues

実を言うと、ぼくがウィトゲンシュタインニーチェハイデガーといった哲学書をかじってみる気になったのは40になってからのことなのだった(それまでは酒に溺れていて本なんて読む余裕もなく、読んだとしても文学書ばかりだった)。だから哲学に関して言えばぼくは単なる「トーシロ」でしかない。でも、いまぼくはDiscordやFacebookでさまざまな哲学・現代思想関係のグループ(サーバ)に出入りするようになり、他のメンバーの方と見解をシェアして議論したりするようにもなった。

ぼくにとっては、哲学とは個人的な営みである。その哲学を通して、言葉になっていないあいまいなグツグツした思いが明晰な「かたち」を取り始める(そう、手でつかめるほど明晰な「かたち」だ)。でも、一方ではこうした思いを他人に共有できるように言語化しないといけない。なぜならもし心の中だけで閉じこもってしまったらそうした考えはたんなる妄想だったということで終わるからだ。

バカげた話かもしれないが、このことについて考えるとぼくはそうしてまさにひどい妄想・妄念と戦った悪名高き犯罪者たちのことを思い返してしまう。もし彼らが哲学の文献に触れイロハを学んでいたら、と考える。なら、彼らはまた別の可能性を生きられたかもしれないと。いや、これはもちろん相手を見下した失礼な発想というものかもしれない。でも、ならばぼくについてはこんなことは言えないだろうか。ある意味ではウィトゲンシュタインがぼくの妄念にブレーキをかけてくれているのだ、と(でもここでぼくは、ニーチェを対話の1人として考察を続けて、でもついに「闇堕ち」した酒鬼薔薇聖斗を思い出す……思い出さなければならない)。

もしかしたらぼくはヤバいことを言っているのかもしれないけれど、でも少なくともそうした哲学はぼくにとってコンパス(方位磁石)みたいなもので、この人生においてそんな哲学があったからこそ道を迷わないで生きてこられているのかなと思う。他の人にとっての神みたいなものだ。ぼくは実はこれまでの人生で神を信じられたことはない。いや、信仰がくだらないとかそんなことを言いたいのではない。個人の実感として神がいるという確かな存在感をひしひしと感じたことがないというそれだけの理由だ。

まだ発達障害者と診断される前のこと(20代だっただろうか)。医師がこんなことをおっしゃった。「きっと、いいことあります!」。その当時、その言葉に崖から突き落とされたような、ひどく無責任な響きを聞き取ってしまったことをいまでも思い出す。その後も、人は時に誰かが見守ってくれていると言ってくれた。でも、抽象的というか自己啓発書ごのみの理屈(というか「ゴタク」)のように思えてうさんくさく思ったりもしたのだった。

40になり、この日記のアタマでも書いたようにいまの友だちと出会い、その友だちに刺激されて哲学書のガイドブック(まさに中高生・ティーンエイジャー向けに書かれた平たいガイドブックだ)を紐解くところから哲学を学び始めた。いま、こんなふうに感じる。哲学はこの個人の実存(と、難しい言葉をぶちかましてしまったが要するにこの率直な気持ちよさとか気持ち悪さとかいった「感覚」)から始まる。そしてそれをぼくが外に伝えることで会話が始まる。

そんな感じで、個人の私的領域とパブリック(公的領域)をせっかちに行き来する。そんなムーヴメント(あっちこっち動き回ること)が「生きるってこと」なのかなと思い始めている。