跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/04/23 BGM: Steely Dan - Deacon Blues

実を言うと、ぼくがウィトゲンシュタインニーチェハイデガーといった哲学書をかじってみる気になったのは40になってからのことなのだった(それまでは酒に溺れていて本なんて読む余裕もなく、読んだとしても文学書ばかりだった)。だから哲学に関して言えばぼくは単なる「トーシロ」でしかない。でも、いまぼくはDiscordやFacebookでさまざまな哲学・現代思想関係のグループ(サーバ)に出入りするようになり、他のメンバーの方と見解をシェアして議論したりするようにもなった。

ぼくにとっては、哲学とは個人的な営みである。その哲学を通して、言葉になっていないあいまいなグツグツした思いが明晰な「かたち」を取り始める(そう、手でつかめるほど明晰な「かたち」だ)。でも、一方ではこうした思いを他人に共有できるように言語化しないといけない。なぜならもし心の中だけで閉じこもってしまったらそうした考えはたんなる妄想だったということで終わるからだ。

バカげた話かもしれないが、このことについて考えるとぼくはそうしてまさにひどい妄想・妄念と戦った悪名高き犯罪者たちのことを思い返してしまう。もし彼らが哲学の文献に触れイロハを学んでいたら、と考える。なら、彼らはまた別の可能性を生きられたかもしれないと。いや、これはもちろん相手を見下した失礼な発想というものかもしれない。でも、ならばぼくについてはこんなことは言えないだろうか。ある意味ではウィトゲンシュタインがぼくの妄念にブレーキをかけてくれているのだ、と(でもここでぼくは、ニーチェを対話の1人として考察を続けて、でもついに「闇堕ち」した酒鬼薔薇聖斗を思い出す……思い出さなければならない)。

もしかしたらぼくはヤバいことを言っているのかもしれないけれど、でも少なくともそうした哲学はぼくにとってコンパス(方位磁石)みたいなもので、この人生においてそんな哲学があったからこそ道を迷わないで生きてこられているのかなと思う。他の人にとっての神みたいなものだ。ぼくは実はこれまでの人生で神を信じられたことはない。いや、信仰がくだらないとかそんなことを言いたいのではない。個人の実感として神がいるという確かな存在感をひしひしと感じたことがないというそれだけの理由だ。

まだ発達障害者と診断される前のこと(20代だっただろうか)。医師がこんなことをおっしゃった。「きっと、いいことあります!」。その当時、その言葉に崖から突き落とされたような、ひどく無責任な響きを聞き取ってしまったことをいまでも思い出す。その後も、人は時に誰かが見守ってくれていると言ってくれた。でも、抽象的というか自己啓発書ごのみの理屈(というか「ゴタク」)のように思えてうさんくさく思ったりもしたのだった。

40になり、この日記のアタマでも書いたようにいまの友だちと出会い、その友だちに刺激されて哲学書のガイドブック(まさに中高生・ティーンエイジャー向けに書かれた平たいガイドブックだ)を紐解くところから哲学を学び始めた。いま、こんなふうに感じる。哲学はこの個人の実存(と、難しい言葉をぶちかましてしまったが要するにこの率直な気持ちよさとか気持ち悪さとかいった「感覚」)から始まる。そしてそれをぼくが外に伝えることで会話が始まる。

そんな感じで、個人の私的領域とパブリック(公的領域)をせっかちに行き来する。そんなムーヴメント(あっちこっち動き回ること)が「生きるってこと」なのかなと思い始めている。