跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/09/15 BGM: Denki Groove - 密林の猛虎打線

今日は遅番だった。朝、保坂和志カフカ式練習帳』を少し読んでから前に買っていたデイヴィッド・チャーマーズ『リアリティ+』の原書も少し(数ページ程度だ)読む。そして今日の詩を書く。その後、またいつものように考えごとをする。Discordのとあるグループで「なぜ哲学を勉強するのですか」という問いが提起されており、その問いに興味を抱いたのだった。単純だけれど、奥が深い問いだと思う。ぼくなりにその問いに答えを出すなら、ぼくはかつて発達障害が嵩じていじめに遭ったりしていたので必然的にそんなクラスや学校の中における異端/アウトサイダーとして、「自分は間違っているのだろうか」「正しい真理とはいったい何だろう」と思う気持ちや引いては「なぜこんな苦しい思いをして生きなければならないんだろう」「人生に意味はあるのだろうか」と思う気持ちが芽生え始めたのだった。思えば10代のうちからそんな「そんなことを考えるのは10年、いや20年早い」な問いに取り憑かれて生きていたのだから、あらためて自分はつらい時代を生きたのだなと思った。まだウィトゲンシュタイン柄谷行人アルベール・カミュも知らないうちからぼくは徒手空拳で「言語ゲーム」や「実存」について自分なりに考えていたのだった。

過去、ぼくも「大リーグボール養成ギブス」ばりに自分自身を鉄人/超人の域に鍛え上げたいと思い、当時尊敬していた宮台真司宮崎哲弥みたいになりたいと思って無理をして本を読みまくったものだ。知識を得ることで、この自分自身を守ることや正当化することを目指して……そして他人を圧倒すること、もっと言えば論破することばかりを目指していたっけ。幸か不幸かぼくはしゃべることが下手くそなので宮台真司みたいに論戦の達人として振る舞うこともできなかった。なので、「議論は向いてないな」と見切りをつけてしまった。いまは論破に特に重きは置いていないつもりである。いや、闊達なコミュニケーションは大事だと思う。でもぼくは、派手な「議論」(Xなどで日々散見されるたぐいの口汚いもの)ではなく「対話」を試せればと思っている。もちろんそんな「対話」が「万能」だとは思っていないにせよ……そして、自分の楽しみのために、自分の魂がそそのかすままにウィトゲンシュタインや上に書いた保坂和志を読みたいと思っている。そうして読書を続けることが自分自身の人間成長の礎にならないものか、と。そんなことをDiscordにも書き込み、また機会を見つけて他の人とこのことについて語らいたいと思った。と書いてきて、宮台真司速水由紀子と著した『サイファ覚醒せよ!』のことを思い出した。あるいは、それこそ柄谷行人『探究』のことを。宮台や柄谷はこうした彼らの仕事を通して、あくまでぼくなりの理解を記すことになるが「世界」を知ることや触れることの重要さを語っていたとぼくは受け取っている。ぼくならぼくが住むこの「社会」「共同体」の外に、広大な「世界」が広がっている。その「世界」と自分自身のつながりを知ること……それはつまり人生訓的に言えば、自分の小さな認知を超えた広い「世界」の前に謙虚になることだとぼくは受け取る。上に書いてきたことに話を戻すなら、ぼくはウィトゲンシュタインを読んだりして哲学の歴史に触れ、そうして哲学を学ぶことで人と対話してそこから多くを学び、そうして能動的に「世界」に関わって自分を開いていく。それは英語学習についても言えることだと思う。英語を学ぶことを通してぼくはさまざまな人と会い、彼らの英語力や人間力に触れて刺激され多くを学ばされる。そうして学ぶことでこの世にはもっと広い「世界」があることを知り、世界の神秘についていま一度考えてそこから多くを得る。そう考えていくと、学ぶことは常に「外部」に触れるためといってもいいのかなと思った。とある出来事があり、あらためて自分の英語力について思い至る。これからどうするか……20代・30代は英語のことなんてこれっぽっちも考えず、人から「語学はできないのですか」と訊かれたこともあったけれど尻込みしてしまっていた。40代になって、非常に遅まきながら学びを再開していまに至るのだけれど、いまお世話になっているオンラインサロンのミーティングでも人の中に眠っている人間力について、あるいは「伸びしろ」について唸らされているところである。ぼく自身の中にも「伸びしろ」と呼べるものがありうるのか……いや伸びているのか単に老化して弛緩していっているだけなのかぼくにはわからないけれど、なにはともあれ「これから、いまのこの仕事を続けながら英語力を活かした活動が何かできないものだろうか」とあらためて考え始めたのだった。どんな形でそれが実現しうるものなのか、それはぼくにはわからない。ただ50代になり60代になっても、ぼくはこの学びを続けるのかなと思う。ああ、あの絶望に染まった日々から比べるといまがほんとうにありがたいなと思う。そうして、一生見果てぬ夢、触れられない「世界」に触れたいと思って生き続けるのかな、と。