31. 内田百閒『冥途・旅順入城式』
大学生の頃この文庫本を買い求め、そして読み耽ったことを思い出せる。実に旨味のある日本語で書かれた、とぼけた中に鮮烈な怖さを見せつける怪異譚の数々。こうしたものを書きたくて無理をして猿真似的な作品を習作として書き連ねた思い出がある。もちろん「黒歴史」だ。
32. 『長田弘全詩集』
詩の世界のことはぜんぜん詳しくないのだけれど、長田弘の詩は好きでよく読み返す。彼の平たい日本語は奥が深い。この世界をありのままにスケッチした、そのていねいでぬくもりのある筆致に憧れたものだ。さすがにこれは真似られなかったけれど。
33. 岸本佐知子『気になる部分』
岸本佐知子はほんとうにいったい何を考えているのだろう。内田百閒が持つ「どんくさい鋭さ」にも通じる狂気の知性の持ち主だと思う。翻訳というジャンルで大活躍している彼女だけれど、それこそ百閒のように「老いの手遊び」で何か創作を書いてアッと言わせてもらえる日が来ることを勝手に待つ。
34. ル・クレジオ『物質的恍惚』
この本はまさに「若気の至り」の1冊。この世界のすべてをその恐ろしいほど貪欲な知性で描き尽くそうとした試みとして評価できる。その知性は人間世界のせせこましさを超えて、本の中で実に豊穣なグローバリズムを達成させたとも受け取れる。「哲学」書として面白い。
35. ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』
ぼく自身がかつて恋に落ちた時、自分の中にある恋という現象に整理をつけたくて手に取った本。だがもちろんそんなことはできるわけもなかった。この美しい断章で構成された本を虚心に読めばロラン・バルト自身も恋には実に厄介な思いをさせられたことがうかがえる(と思う)。
36. 田中小実昌『ポロポロ』
コミさんのような老い方をしたい、といつも思っている。威張らないけれどそれでいて確かなインテリジェンスを感じさせる、まろやかさの中の鋭さにやられる。この美しい小説集では苛酷な過去がユーモラスな脱線に満ちた筆で書かれて、語ることそれ自体の楽しさと魔性を考えさせる。
37. 多和田葉子『言葉と歩く日記』
多和田葉子の書くものは実にチャーミング。日本語とドイツ語の間で常に彼女はつまずく。そのつまずきの中からキラリと光る発想を取り出し、それをマジカルに小説やエッセイに仕立て上げる。この日記でもそのマジックは遺憾なく発揮され、読んでいて陶然とさせられる。
38. 飛火野耀『もうひとつの夏へ』
ぼくにとって、サイバーパンクやパラレルワールドの持つ魅力と魔を教えてくれた大事な作家の大事な作品。もうどこへやってしまったかわからなくなったけれど、かつては夏になれば儀式のように読み返した時期があった。今でも「彼ら」について考えると胸が痛くなる。
39. 蓮實重彦『映画に目が眩んで』
蓮實重彦の映画評をおっかなびっくり読んでいた時期がある。もちろん映画の素人たるぼくにわかるわけもなかったが、この分厚い1冊は彼が決してただの高飛車な批評家ではなくてジャーナリストもしくはアクティビストであることを教えてくれた。愛は人を走らせる。
40. サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』
恥を忍んで言えば、英文学を学んだにもかかわらずサリンジャーをまともに読んだのは大学を出てからだった(はずだ)。だがそうしてイノセンスを失ったあとにサリンジャーに触れたのは下手に「かぶれる」危険性もなかったとも言えるわけでよかったのかもしれない。
41. グスタフ・ヤノーホ『カフカとの対話』
カフカの小説や散文作品ももちろんすばらしい。だが、ヤノーホという1人の青年を通したこのカフカも実にすばらしい。彼は成熟した人間の立場からていねいにヤノーホと接し、彼を的確に導く。時に厳しくヤノーホの甘えを指摘するカフカの高潔な人格は今もってぼくにとって眩しい。
42. 平出隆『葉書でドナルド・エヴァンズに』
平出隆の散文に触れるようになったのは最近のことで、だからこの本も最近読んだ。こうしたみずみずしい散文にぼくは弱いようだ。その後も『猫の客』や『鳥を探しに』を読み、彼が実に豊かな想像力と詩才を備えた人物であることを思い知らされる。
43. 堀江敏幸『河岸忘日抄』
堀江敏幸の書くものを「これは小説」「これはエッセイ」と腑分けすることは、もちろん大事な試みでもあるだろうけれどそんなに意味がないかもしれないとも思う。だって、この作品をどう読めばいいのだろう。ただ文を読むだけでうっとりしてしまう喜びというものが確実にこの世には在る。
44. 藤沢周『ブエノスアイレス午前零時』
藤沢周のこの作品は、頭がよすぎるというか回りすぎる人間だからこその生きづらさがあることを教えてくれる。主人公に託されて描写される内省・内観のせせこましさと外に向けられる視線の動きの素早さ。そこから立ち上がる世界の広さ。
45. 松浦寿輝『青天有月』
松浦寿輝の書く「エセー」からは確かな知性を感じる。それゆえに高飛車に感じられることもあるが、繊細な日本語の美しさには常に打ちのめされる。ぼくは所詮は貧乏人の三文ブロガーなので、彼の真似などできっこない。その事実を受け容れられるまで時間がかかった。
46. 吉田健一『時間』
吉田健一の小説も批評ももちろん素晴らしいのだけれど、この長い「時間論」はそのまま彼のインテリジェンスが遺憾なく発揮された1冊であると思う。わかったようなわからないような議論の中に、確かにこうして生きていることの手応えが内包されているとぼくは読む。
47. 後藤繁雄・坂本龍一『skmt 坂本龍一とは誰か』
坂本龍一の音楽も発言もぼくは「つい最近」評価するようになったから偉そうなことは何ひとつ言えない。アモルファス、つまり不定形なものとして自分を捉えその場の思いつきを発言する。その軽やかで暴力的な知性は、なかなか真似できるものではない。
48. 鶴見俊輔『期待と回想』
鶴見俊輔の書いたものもぼくは「つい最近」読むようになった。漫画を論じ大衆文化に詳しかった彼の関心とぼくのそれは重なるところも少なくない。闇雲に結論を出さずまずじっくり対象を捉え、慎重に吟味する。そんなデリカシーを学んだと思っている。
49. 保坂和志『プレーンソング』
保坂和志の作品世界に憧れ、そこに住みたいとすら思ったことがある。彼の作品は外に開かれており、ぼくのようなダメ人間をも受け入れるゆとりがあるように思ったからだ。このデビュー作でも彼は実に屈託なく「スロー」に生きる人たちを描いている。
50. 橋本治『89』
実を言うとこの本に関する印象はほどんどない。高校生の頃に読み耽ったまま、気がつくと再読もせずに今に至ってしまった。だが、世界で1989年に起きたさまざまなできごとを縦横無尽に論じる野蛮な知性とその知性に裏打ちされた「大人の態度」は多くを教えてくれた。
51. フェルナンド・ペソア『不安の書』
ペソアの散文とぼくの書くものが似ている、と言ってくれた人がいる。それは確かにありがたいことだ。だが、ペソアの内省の十分の一ほどもぼくは到達していないのではないかとも怖くなる。声高に何かを語るのではなく、世界の片隅でつぶやかれた文学がここにある。
52. 沢木耕太郎『路上の視野』
53. 沢木耕太郎『象が空を』
彼からも2冊挙げることになってしまう。沢木耕太郎の書くものは高潔で、おおらかなフェアネスが存在すると思う。対象を理解しようという開かれた精神があり、その精神が率直さと結びついて唯一無二の文章へと昇華される。その勤勉な仕事から生まれたコレクションがこの2冊だ。
54. 野矢茂樹『「哲学探究」という戦い』
野矢茂樹が我が身を賭して挑んだウィトゲンシュタイン『哲学探究』。狂気にまで接近した「哲学」の営みの滑稽さと真摯さ、その態度が導きうる「考えること」の真価をこの本は見せてくれる。ぼくもウィトゲンシュタインや野矢にあやかって自分なりの問題を考え続けたい。
55. ウィトゲンシュタイン『哲学探究』
そうなってくるとこのウィトゲンシュタインの後期の代表作もぼく自身を作り上げたと言えるのかもしれない。断章形式はそのままに、自問自答や脱線を繰り返しながら不器用に思索は続く。レトリックの優雅さももちろん哲学書のキモかもしれないが、ぼくはこの不器用さを愛する。
56. 辺見庸『独航記』
辺見庸にもカブれた時期がある(根っからぼくは左翼的な人間なので)。彼の崖っぷちで自らを律するロマンティシズムとナルシシズムは、確かに「クサい」ところがある。でも彼の破壊的な怒りには共感する。ぼくは怒るのがド下手なので怒らないけれど。
57. ロバート・ハリス『アフォリズム』
ロバート・ハリスという人がこれまでの人生で集めた寸言/アフォリズムをまとめたもの。思想とはこうした鋭利さに裏打ちされているのかと読むほどに唸らされる。ぼく自身この本から自分を律するヒントをもらったように思う。もちろん、ユーモアも。
58. 茂木健一郎『脳と仮想』
茂木健一郎の書くものもどこか文学的というか、冷徹な観察眼を支えるハートウォーミングな温もりが存在すると思う。その温もりがこのエッセイ集を読みやすく、「哲学」の香りのする1冊に仕上がっていると思う。専門的な知識がなくても面白く読める。
59. 阿久津隆『読書の日記』
このレンガのように分厚い本をぼくは愛する。そこには日々をていねいに、着実に生きる人がその生活から編み出した読書の記録が率直に記されている。ぼくも彼のように常にフォームを崩さず、日々を生きたいと思っている。ぼくの日記はまたタイプが違うけれど。
60. 粉川哲夫・三田格『無縁のメディア』
この往復書簡はぼくに常に「読み続けること」と「その不十分な知識を駆使して自由に発想を広げること」を教えてくれた。彼らはアマチュア精神を備えた知性で政治や文化を斬っていく。その自由さの百分の一も発揮できないのがぼくの悲しい限界だけど。
61. 池上英子『自閉症という知性』
池上英子が見た「セカンドライフ」というヴァーチャル・リアリティの世界。その中で自由に発言する自閉症者/発達障害者の姿の描写に、ぼく自身勇気をもらったことを思い出せる。自閉症は「アナザー」な知性なのだ。決して「ストレンジ」なのではなく。
62. 芝山幹郎『映画西口東口』
この映画評集からぼくは文章のイロハさえ学んだと思う。芝山幹郎は実にたくさんの映画を観ており、その他のジャンルからも学び続けている筋金入りの名コラムニストだがそうした威張ったところがこの本からは感じられない。気さくさ、風通しの良さが魅力だと思う。
63. 阿部昭『単純な生活』
阿部昭のこの小説は言ってみれば日々の記録を無加工に描いたものである。だが、彼の筆致には確かな滋養が存在しており、その平々凡々たる日々の記録が旨味を備えたものとして立ち上がる。ぼくも自分の生活をもっと単純にすべきか、とこの本を読み憧れてしまう。
64. 宮台真司『絶望 断念 福音 映画』
宮台真司は泣く子も黙る社会学の第一人者だが、この映画評集では彼の素養が決して社会学にとどまるものではなく哲学や文学にも造詣が深いことを教えてくれる。彼の映画評は賛否を呼ぶだろうが、ひとつの「徹底した」思考のあり方としては参考になる。
65. フィリップ・フォレスト『さりながら』
実にセンチメンタルだが、それでいて下品さはない。フランスの批評家が、やがて自分や他人に訪れる「死」について思いを馳せそこから「人生の儚さ」「もののあわれ」にまで思いを至らせた、その過程から生まれた小説。こうしたあけすけさは嫌いではない。