ぼくが大学生の頃のこと。だから19か20くらいの頃のことか、1冊のおもしろい書物と出会った。それはグスタフ・ヤノーホ『カフカとの対話』という本で、著者グスタフ・ヤノーホがまだ若かりし頃にひょんなことから知遇を得たあのフランツ・カフカについて、思い出話や会話の断片を1冊の書物としてまとめ上げたものだ。実を言うと、今日はそのフランツ・カフカの忌日である。なのでぼくは今朝の読書タイムを、この本を持参して読み進めることにしたのだった。
このヤノーホの本を読む前……それまでぼくはカフカのことは名前は知っていたが、作品世界が不条理だとか難解だとか言われていたことを聞きつけて「じゃ、わかるわけないな」と思って敬遠してきたのだった。その頃からぼくは自分の人生がトラブル続きで、生きていくことにすでに疲れ果てておりそんなカフカ的な、「シュールな」世界にことさらに興味を持てなかったのだった(当時、ぼくは自分の人生そのものがすでにもう不条理で、カフカ的ですらあることに疲れ果てていたとも言えるかなと思う……まだ発達障害と診断される前のことである)。そんなわけでカフカの本は、あのすばらしい奇跡的な達成『変身』さえも読めていなかった。
でも、高校時代に模試で解いた問題にこの本からの引用が載せられていたのを読んだかなにかで興味を持ち(はっきり覚えていないのだけど)、このヤノーホの本に興味を抱くこととなる。そして、それまで本はおろか他のソースでも知りようがなかった「ありえたカフカの姿」「となりのカフカさん」とでも呼べるカフカの姿にも。少なくともこのヤノーホの本を通して、ぼくもまたカフカに心酔するささやかなファンになってしまったことを告白したい。本書はその筆致を通して一見するとどこにでもいそうな、しかし実にカリスマ的なたたずまいを感じさせる人間、そしてヤノーホに親愛を見せることを惜しまなかった広い心を持つ文人としてのカフカを描いている。
はじめてこの本を読んでからというもの、なんだかんだで(途中酒に溺れたりしてエラいことになったりもしつつ)このスットコドッコイな人生をぼくはこの本と伴走・並走してきたことになる。もちろんもうぼくはわかくないが、いま読んでもぼくは本書でヴィヴィッドに・繊細な筆致でつづられるカフカの姿に「襟を正す」思いを禁じ得ない。それこそ聖者か、生ける神かといったたぐいの畏敬の念だ。いや、虚心に読めばヤノーホはカフカを一方ではただの勤め人として照らし出しているのだが、ヤノーホがときに自身の内面の揺れを包み隠さず正直に書き記すその情熱的な筆致がぼくをして同じようにカフカへの畏敬を誘うのだろう。読めば読むほど、カフカは「二面性」「2つの顔を持つ人」だったのかなとも思う。陳腐ではあろうが、勤め人としてのカフカの中にあった神々しいメンタリティについて思いを馳せる。いや、ぼくは逆立ちしたってこんなカフカの高みに達せるわけもないのだが。
午後、ネットニュースを介して靖国神社で起きた事件を知る。ある中国人が落書きをしたというのだ。WeChat(微信)で中国の友だちと少しばかりこのことを話す。いや、怒りを燃やすのはかんたんだ(し、そうして怒りを燃やす感情をいたずらに「冷笑」するのもはしたないだろう)。だが、ぼくに限って言えばぼくはもっと「あの国」「彼ら」が(一部の人たちであれ)持っているはずのたしかな怒りについてまず学ばないといけないと思った。日本の国・国民に対して、この歴史を通して培ってきた怒りについて。対応するのはそのあとでも遅くはないとぼくは判断する。