ランチタイムになり、今日も今日とてYMOを聴いたりしつついろんなことに思いを馳せる。この日記にいつも飽きもせず「今日のBGM」を書いているのでもうお気づきの方もおられるかもしれないが、ぼくは音楽が好きである。いい音楽はいいヴァイブやグルーヴ(波動、と書くべきだろうか)をもたらし、心をウキウキさせたり落ち着かせたりしてくれると信じているからだ。言い換えればそうしたヴァイブ(波動)に包まれていれば、ぼくは安心して自分自身を「失う」「なくす」ことができる(つまり「恍惚」「エクスタシー」を感じられる)。たぶんにぼくはクソ真面目なので、こうして外在するものによって打ち壊されることが大事なのだろう。堅牢さを志向するぼくの心はしょっちゅうフリーズし、混乱する。ゆえにたくさんの本を読んだりもする。
ぼくが畏敬の念を以て聴いてきたバンドであるR.E.M.が名曲「ルージング・マイ・レリジョン」で歌うように、人生はつねにぼく自身のせせこましさを超えて広がる巨大な、茫漠としたものでありゆえに神秘的なのかなとも思う(ぼくはもともと「レリジョン(宗教)」を信じる敬虔さなど持ち合わせていないにしても)。たとえば、ぼくはなんでこんな非常に抽象的なことをあれこれ考えるのか。いや、ふざけているわけでもなくナメているわけでもなくごく本気で書いている。言い換えればこんなことを考えついてしまうということはぼくは(誰だってそうかなとも思うが)自分がなにを考えるかコントロールできないということだ。公の場で書くことを吟味することはできるにしても、ぼくの頭の中はそんなふうに見ていくと実にどす黒かったり桃色だったりする思いが充満しているのだった。そして、たぶん森羅万象(ありとあらゆるもの)がそんなふうに自分を超えて広がっているとも言えなくないだろうか……根拠などない話をあれこれ書きなぐってしまったが、少なくとも音楽はぼくにとって偉大というか端的に巨大なものだ。母性のように……ああ、ここで「海」「宇宙」が出てこず「母」が出てくることが恥ずかしい。
仕事を終え、夕食としてカレーを食べたあとにグループホームの自室でリラックスして「自分時間」を満喫する。またしてもあれこれ考えごとをする。読みかけだった阿久津隆『読書の日記』を手に取り、ページを繰ったらその筆致に惹かれて読みふけってしまい結局消灯時間まで読む。阿久津のキリッと鋭い眼力に実に満身の嫉妬さえ覚えてしまった(はばかりながら、ぼくも日記を書いているので)。その阿久津の眼力とスマートな脳は彼およびぼくたちの日常生活に起こるさまざまなできごとを開示し、その中にある神秘を描写する。だが、それこそが彼の持つ天賦の才能であり、端的にぼくなんて逆立ちしたってかないっこないという話なのかもしれない。日記を面白おかしくするために、ぼくもなにか工夫というか自分なりの道を切り開く必要があるのかなと思う。でも、ぼくのセンスはもう錆びついておりなんら面白いことが浮かばない。時事ネタに走るべきか、下世話な下ネタを書くべきか。いや、それこそもう歳だし先にも書いたようにこの身体がしつこい脂物を受け付けないのと同じで「無理すんな」という話になるんだろうけれど。