跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/10/07 BGM: Ryuichi Sakamoto - Tong Poo

今日は早番だった。仕事が終わったあと未来屋書店に行きそこで本を見繕う。清岡智比古『フランス語をはじめたい!』という本が目を引いた。フランス語か……買おうかどうか迷い、そうこうしているうちに歯医者に行く時間になってしまったのでその場は買わないことにした。でも、その後治療を済ませてグループホームに帰ったあとに「またフランス語をやり直すのも面白いのかもしれないな」と思ってしまった。MeWeでフランス人の友だちとチャットをする。彼女は「YouTubeで学ぶのはどう?」と薦めてくれた。その発想はなかったわ、と思ってフランス語を教えてくれるYouTuberを検索して時間を過ごす。Discordでもフランス語話者がいないものかと探してみたりもした。そんなことをしているうちにぼくの中の好奇心が疼き、大学時代にやってみてまったくものにならなかったフランス語をやり直すというアイデアにまた魅力を感じ始めたのだった。何はともあれ、お金ないけどその『フランス語をはじめたい!』を買ってやってみようかと思った。ぼくは(発達障害のせいもあるのか)こうしたマニアックで凝り性なところがある。その反面、ハマらないことは早々に飽きてしまう人間でもあるのでこのフィーバーだっていつまで続くものか怪しくもあるのだけれど。

大学生の頃に第二外国語としてフランス語を選んだきっかけというのはただ単にロラン・バルトを原語で読みたいという夢があったからだ。でも、あの頃はまだまだ自分は堪え性がなく「努力して何かを体得する」という当たり前といえば当たり前のことがらを「身体で」「腑に落ちる形で」学んだことがなかったのだった。言い方を変えると、努力することの大事さを「身体で」学んだことがなかったと言える。がゆえに「とにかく努力なんてまっぴらゴメンだ」と思い一夜漬けで授業に臨み、毎日行うべき予習・復習もまったくせず……書いていて恥ずかしくなってきた。もちろんこんなちゃらんぽらんな学び方でフランス語が身につくわけもない。現に、授業でも誤訳を通り越して暗号や呪文のようなフランス語や英語を披露してしまいとんだ恥をかいた。それもいまとなっては懐かしい。その後いろいろあってフランス語も英語もいっさいあきらめ、それどころか真っ当な勤め人として生きていくことさえもあきらめて20代・30代をすごしたこともいつも書いているとおり。ああ、人に歴史ありと言うけれどぼくの人生もこうやってロングショットで見てみると実に味わい深いとしみじみ思ってしまう。でもこんなことを書きたかったわけではなかったのでこの話はまたいずれ。

グループホームに帰り、本棚を見てみると中谷美紀の『オーストリア滞在記』があるのに気づく。中谷美紀のこの日記も面白く読んだのを思い出す。彼女もフランス語が堪能で、そしてドイツ語を学んでいて貪欲に海外の文化を学んでいるのではなかったか。少なくとも『オーストリア滞在記』で地道に・誠実にドイツ語学習に取り組む様子を日々記していた中谷美紀の筆致からぼくがあらためて学んだのは「語学学習は王道なし」「流した汗は裏切らない」ということだ。それは同時に、ぼくが参加しているDiscordのサーバ/グループで日本語という(ネイティブのぼくにとってさえも複雑怪奇な、ゆえに味わいのある)言葉を学び続ける人たちと交際していて学んだことでもある。いまはもうロラン・バルトを原語で読みたいという向学心もなくなってしまったが(それにぼくはさまざまな研究者・翻訳家の研究の精華としての「日本語訳で読む」ロラン・バルトにこそ愉楽を感じる)、これから努力すれば何か得られるものはあるのかもしれない。機械翻訳全盛の時代にわざわざ汗をかいてフランス語を学ぶというのは時代に逆行しているのかもしれないけれど、それでもやってみても面白いのかもしれないと思った。でも、いまから原語で読むとすると誰のどの本を読むことを最終目標にするべきか。ここはドカンと「ル・クレジオを原語で読もう!」と考えるべきか。いや、鼻で笑われそうだが(なにせまだ「その気になりかけている」な段階でしかないので)。

そして、こうして「フランス語を学ぶこと(裏返せば『学ばないほどしゃべれない』くらいフランス語がぼくにとって『遠い言語』であること)」や「そもそも、英語ならそれなりにしゃべれてしまうこと」についても考えをめぐらせた。最近読んだ山口仲美『日本語が消滅する』の影響かなとも思う。というのは、ものすごくねじくれた・ひねくれた見方になるのだけれど「話せる言語」について考えていくとその言語を学ばせる環境がどのようにしてもたらされたかについても思いが及ぶからだ。難しい話ではない。仮に日本が完全にアメリカに占領されてしまいアメリカの「州」の1つとなり、英語が公用語になってしまってそれこそ「日本語が消滅する」という現象が起きていたらどうなっていたか……そんなことは起きなかった。そして、いまなおぼくたちはこうして古式ゆかしい日本語を使って読み書き・コミュニケーションすることができている。そう考えていくと、何となく目の前にあったりいま自分の中に根付いたりしているものが「当たり前」であることに驚異を感じる……うーん、どう書いても難しくなってしまう。たとえばイオンに行ったら5キログラム・10キログラムのお米が買える、ということがいかに驚異なのかという話なのだけれど……どうだろう?