Discordで「Xの情報を鵜呑みにしてはいけない」というような諫言をもらった。そこから見えるのは、XやFacebookといったソーシャルメディアとDiscordやWhatsApp、あるいはInstagramや(ぼくは使っていないが)Tiktokといったメディアのユーザー層はもしかしたら違うものを見ているのかもしれないという可能性だ……ぼくはでは、どこを見るべきなのだろう。これは単なるぼくのヤマカンや経験則に裏打ちされたあやふやな処世術になってしまうのだけれど、でもこんな時に大事なのはともかくも自分の足元をしっかりさせることではないかと思う。「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである」と吉田健一は言ったという(もっとも、この「名文句」に関しては「文脈を無視して引用されて『独り歩き』している。まことに嘆かわしい」という意見もあるようだ)。ぼくも、この吉田健一やあるいはこの言葉を知らしめた小西康陽に倣って「できることを、あせらずていねいに」していきたく思っている。また図書館が開けば、ぼくの信頼できる友だちがXで推薦していた岡真理『ガザに地下鉄が走る日』を読み返してみるのもいいかもしれないと思った。あるいはそれこそエドワード・サイードの古典を。
今日からおっかなびっくり、おっとり刀でフランス語をまた学び始めようかと思い友だちのフランス語のグループに(とりあえず機械翻訳で、わかる範囲で"Bonjour!"とか"Je suis désolé!"なんて書きつつ)フランス語を投稿する。さて、身につくのか否か。読み始めた清岡智比古『フランス語をはじめたい!』は実に面白く、ノリもよくスイスイ楽しめる。昨日も書いたけれど、「フランス語はしゃべれない」のに「英語は少しばかりしゃべれてしまう」自分自身について思いを馳せる。世界が英語という言語によってグローバルにつながり、塗り替えられる……そんな時代にあってぼくは心のどこかで「そういう時代だから日本語もフランス語も『マイナー言語』だ」「英語ができればやっていける」と(ここまではっきり自覚していたわけではないにせよ、「心のどこかで」)思っていたのかもしれないと反省する。日本人のぼくが日本文学やJ-POPに誇りを感じるようにフランス人もフランスが生み出す文化に誇りを感じうる……そう思うとせめて「Salut!」程度の簡単なことは言えた方がいいのだろうなとも思えた。それはたとえばぼく自身が海外から来られた方がカタコトであっても「こんにちは」「すみません」と話しかけてこられた時に好印象を抱きうるのと同じだろう。
ぼくがXでフォローさせていただいている方が、「もうイスラエルやウクライナに関しては『知らない』で押し通そう」とおっしゃっていた。これはぼくは「半分ほど」同意する(「気持ちはわかる。でも支持はしない」とも言える)。これをぼくなりに言い換えれば「あまり『深入り』しすぎず、熱くなりすぎず、自分の足元をしっかりさせた上で提言していく」という「保身」を大事にするスタンスが大事だと思う。別の言い方をすれば、昨日も書いたけれどぼくたちの生活の中にはそんな「イスラエル」や「ウクライナ」の文物・人びとが入り込んできている。「輸入物」「難民」として大文字で政治的に処理される物や人びとのみならず、もっとミクロな「ウクライナからアクセスしてきているDiscordユーザー」や「ユダヤ系の人たちの声」といった形でも入り込んでいる。それがグローバル化ということだと思う。そんな時代において「知らない」と言い切るのは誤解を招きうるし、あるいは端的に「リアル」「実際的」でもないと思う。ぼくのスタンスを「言語化」「見える化」させて他人に伝えるのはむずかしい……だからといってサン=テグジュペリ的に「本当に大切なものは目に見えない」のでぼくの意見も「悟ってほしい」とも言えないのがもどかしくもある。「明晰ならざるものフランス語にあらず」なんて言葉もあるみたいだけど。