でも、やっかいなのはこうして整理してしまうと後者の欲情について「けしからん、そんな欲は相手を蹂躙する身勝手なものだ」となりがちなところではないか。ぼくは、もちろん相手を尊重する気持ちを大事に思いたいという気持ちはあるが、一方で自分の中にその粗野で原始的な欲望がたしかに存在すること、それは消しようがないことを認めざるをえない。あるいは、消してしまえばぼくは人間ではなくなるのかもしれない。理性・理知によって恋愛を割り切ろうとする心理とその理性を超えて暴走する本能の衝動。ならばその両者で常にぼくは引き裂かれているのかな、と思った。
今日は遅番勤務だった。仕事を始めてからも、このことをなおも考えた。ぼくの心の奥底には実に深刻で手のつけようのない矛盾が存在する。ぼくはその矛盾の持ち主として、ついに自分がまったきの白でも黒でも、善人でも悪人でもないグレー(ねずみ色)の人間だということを認める。たとえば、ぼくはときおり世界平和を祈り多様性や平等の概念について「御高説」を書いてしまったりする。でも、この日記でもしょっちゅう書いているがほんとうのぼくはまったくもって「白い」聖人君子なんかではないのである。内心を見つめると、たしかに「黒い」心理がある。というか、いつだってぼくはそんな心理に突き動かされて「お金」「女性」あるいは「物欲」といった本能のそそのかす欲望に負けて動いている、というのが実態だ。
ぼくが尊敬する哲学者の1人、鶴見俊輔の考え方に倣うならば(「ひそみに倣う」というやつだ)、ぼくはこの人生をこんな感じで実にめんどくさいパラドックス(矛盾)に耐え、その矛盾をどうしようもないという絶望に耐え、そして生きることになる。完全に欲望を捨てることもできず、完全に悪になりきることもできず、グレーの状況を……でも、この発達障害の脳みそは白黒がはっきりしないと気がすまないところがあるのでそんなグレー(なにが絶対的にいいことでなにが悪いことかわからない、という状況)に耐えられない。ゆえに、トラブルにさいなまれて敗北する。そんなものなのかな、と思う。たとえば、もちろんぼくは平和は善で戦争は悪だと思う(人が殺されることが善、なんて論理は受け容れられない)。でも、それぞれの側にそれぞれの正義・理想があるということも無碍に切り捨てられない。
このことについて考えると、村上春樹の小説で学んだことに自然とぼくは戻ってしまう。そうした小説を10代の頃などに読みふけったことで、ぼくは彼の洗練されたたくみな語り口(ストーリーテリング)を通してあらゆる人に内在する二面性について考えさせられることとなった。10代の頃……この田舎において、すでに人生にとことん絶望していた頃、人の心理・本性を知る手がかりを彼の作品は与えてくれたのだと思う。ぼくの中には、決して1つにはならない矛盾があり、ゆえに混沌としている。水と油のような要素たちだ。ある意味ではぼくは、心の中にケダモノを飼っているような気がする。