跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/05/13 BGM: Pixies - Where Is My Mind?

今日は遅番だった。朝、シャーデーの歌をぼんやり聴きつつ、ふとこんなことを考えてしまった。ぼくの中にはたしかに「ミソジニー女性嫌悪・女性蔑視)」と呼ばれる感情が眠っていて、それゆえに女性を低く見てしまったり差別してしまったりしているのではないか、と。そのことをLINEで友だちに正直に送ってしまったりもした。いつも書いているように、ぼくはまた過去を振り返る。中学生のころ、音楽の先生に誘われてぼくはブラスバンド部に入っていた。その部は女性部員ばかりのまさに「大奥」的な部だった。そして、なんだかんだでぼくはあらゆる女性部員から蛇蝎のごとく嫌われた(下級生にさえバカだアホだとなじられた)。このことを考えるに、いまもってなおぼくの中には痛みが感じられてしまう。

でも、こうしてぼくに向けられた嫌悪・憎悪にぼくはどう向き合えばよかったのだろう。どう立ち向かえばよかったのか。ぼくの意志や尊厳をどう示せばよかったのか。拳で一発ガツンとぶん殴ってやるべきだったのか。いやもちろん、相手は女性だ。そんなことはできるわけがない(していいわけがない)。でも、理性的なおちついた、言葉によるコミュニケーションが無理ならどうしたらいいのか。このトラウマがぼくをこうした、上に書いた「ミソジニー」をこじらせたやもめに育てたのかもしれない。

振り返って別の思い出を探ってみる。そして気づくのは、ぼくは実に「男の」「野郎の」書き手に育てられてきたということだ。筆頭に挙がってくるのは村上春樹で、あとはウィトゲンシュタインの哲学やフランツ・カフカポール・オースター宮台真司。いやもちろん、女性もぼくの考え方に多大に影響を及ぼしたこともたしかだ。母の考え方、ジョブコーチ、ぼくが愛した女性たち……なんだかこれも不平等のような気もするし、こうしたことも「ミソジニー」かなとも思う。違うかな。

確定していることとして、ぼくは男で異性を愛する者だ。でも、上にも書いたけれどぼくが持つ感情や欲望は過去「キモい」「変態だ」とひどく叩かれ、責められたのだった。そんな感情や欲望なんて誰も持っていない、お前だけが異常だ、ぜったい頭がおかしいのだ、と。そんなことがあって、ぼくはもう愛される可能性や夢をいっさいあきらめてしまおうかと思ったりもしたのだった。そしてこの戦場のような現実世界から甘くておぞましい夢・妄想の世界へと逃げようかな、と……そこではセクシーな二次元の女の子たちがぼくをなんでもかんでも許容してくれる(そうしたオタク的な夢想にハマった時期があったのだ)。でも、いま、ぼくは思う。どうしたってぼくの中にはこの現世でソウルメイトを求める気持ち・情動がある。

上に書いたようなことを考えていたら、ふとあるNPOの先輩の方に話しかけられたのでしばし話し込んだ。いまはぼくのまわりを見渡すとたくさんの友だち・仲間がいて支えてくださっている。自分に言い聞かせないといけない。ジョン・レノンの向こうを張って「戦争は終わった」と。そうだ。過去、ぼくのまわりの人たちが群集心理に取り憑かれておかしなことになっていた、ということなんだろう。いや、そう考えたとしても理不尽さは消えないが、ならぼくはせめて自分がそうした心理に取り憑かれる側に回ることがないようにするにはどうすべきか考えることに努めたい。それがこの人生のミッションの1つなんだろうと思う。