そんな10代の地獄のような日々をなんだかんだで済ませ……大学生活を始めることとなる。でも、心の中ではその大学で深刻な混乱を覚える(いっちょむずかしい言葉を使うなら「アイデンティティ・クライシス」「自分がわからなくなること」となろう)。というのはその頃までみんながぼくのことを嫌っているのが当然という空気で生きてきたので、本音を隠して死んだふりをして無味無臭の存在として暮らすのが当たり前だったのだ。でも大学でぼくのことを嫌う人は表立って・目立ってはいなかったはずだ。キャンパスのムードは開かれていて、そんなくだらないいじめにうつつを抜かす人なんておらずみんなサークル活動や学業にせっせと精を出し大学生活を謳歌するのが当たり前。ぼく自身だけがそんなみんなについていけず、トラウマに苦しめられ鬱を味わう結果になってしまった(もしかしたらこういうのを精神的外傷、俗にPTSDと呼ぶのかもしれない)。
これは謙遜でもなんでもなくはっきりした事実だが、これまでぼくは自分を論理明晰な人間だとも賢いとも思ったこと、あるいはそう人に対して形容したことはない。そりゃそうだろう。足跡を振り返るとぼくの生き様は実にでたらめでジグザグに蛇行するムチャクチャなものであり続けたからだ。村上春樹になりたがり、洗練されたセンスを誇る小山田圭吾になりたくてしょうがなかった人間がいつしかこんな野暮ったくむさくるしくエッチなジジイになってしまった。でも、この発達障害の脳みそが過去に試みたのは人がなぜぼくのことを嫌うかはっきりさせられたら(言い換えれば、ぼくにも誰にもわかるように「なんで嫌うんですか」と言わせることができたら)それを受け容れて改善・向上できるかもしれないというはかない・アホな望みだった。そんなことはでも、できるわけもない。ぼくの身にも覚えがあるのでえらそうなことはビタ一文言えないが、人はクリアな論拠があって人を嫌うのではなくムードやオーラによって嫌うものでもあるからだ。
そんなことを考えて……突如、こんなことを思う。もし、ぼくの子どもの頃にインターネットがあったら? すでにネットが整備され、スマートフォンやパソコンやタブレットがあって、グローバルにつながることができてコミュニティにアクセスできていたら? そこでいろんな見地を学び、発達障害についても世界政治についても学ぶことができていたらどうなっていただろう? いや、そんなことを考えるならもちろん学校や現実生活で英語を学ぶ苦労というかトレーニングに励む必要もあったわけで決して甘っちょろいものではなかっただろう……ああ、またしてもアホな「if」「可能性」の話をしてしまった。仮に実現していたなら、ぼくはたぶん陰謀論に染まって地球が真っ平らでその地球の周りを太陽がグルグル回っているんだとか信じ込んでいたかもしれないなと思う。それが関の山だっただろうな……なんて。