跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/05/12 BGM: Pink Floyd - Wish You Were Here

2016年、日本である実にむごたらしい、冷酷無比な殺戮が起きた。それは「やまゆり園事件」「相模原障害者施設殺傷事件」と呼ばれるもので、植松聖という殺人者によって19人の人物が命を失ったのだ。植松がそうした殺戮に及んだきっかけは、大まかに言えば障害者が社会のお荷物というか存在価値がないからだ、という理由からだったという。

今朝、ある友だちがLINEでこの事件についてメッセージを送ってくれた。だから今日はもっぱらこのことを考えた。まず、自問自答してみた。この植松は果たして、ことによるとこのぼく(ここにいてこの記事を書いている筆者)自身をもその場にいたら殺めていた可能性はなかっただろうか。たぶんぼくは殺されていただろう、と大真面目に思う。というのは、ぼくだってこの社会に何ら貢献できない、宝や遺産を残せない「発達障害者」であることは明白だからだ。植松は相手が生きる価値があるかどうか植松自身が判断するにあたって、相手が話せるかどうかをまず確認したという(この冷酷な律儀さよ! 書いていて吐き気がする)。もし彼らが話せなかった場合(動揺してどもってしまうことだってありえたのではないか?)、植松は相手が生きる価値がないと決めつけたということになる。

明瞭な事実として、上に書いた図式においては植松こそが相手が生きる価値があるか決められる絶対的な権限を持つということになる。ぼくに話を戻すと、もしぼくがあれこれしゃべることができたとしても仮に植松が「でたらめを並べている」「しゃべれるふりをしているだけだ」と決めつける可能性だってありえたということだ。勘違いや思い込みだってありえたのではないか。いや、ここまでくるとさすがに苦しい想像になるが……あるいは、仮に植松が「よし、お前は生きていてよし!」と判断したとしてもそれがなんだというのか。当たり前だが植松はぼくにとっての神でも主人でもないのである。

このことに関して、事件に着想を得たという辺見庸『月』を読んだりいろんなニュースソースに触れた経験から考えるに、植松はきっと(もちろんぼくの身勝手な「私見」「個人の感想」の域を出ないが)とても傲慢な、官僚的とも言える「良心」に取り憑かれて自分を見失うところに来ていたのだと思う。「良心」という言葉をここで使うのは、彼が私利私欲を満たすためとか社会への恨みつらみを晴らすためとかいった「暗さ」を感じないからだ。だが、言うまでもないが彼の無差別大量殺人が良心や無知からきたかもしれないなんて可能性があるにしたって、殺人は殺人なのであり断固として許容できないことは書いておきたい。

ぼんやりと、いったいどんな哲学や文学がこの大量殺人を阻止できたかについて考えてしまう。くだんの友だちに上に書いたようなことをLINEしたあと、引き続き考える。植松自身はこの事件の「あと」にナチスに代表される優生思想のことを初めて知ったのだという。日本の教育システムは誰もの命が価値があるという端的な事実を共有できるだろうか、と思う。「事実」と書く。ここにいるこのぼくの命、ぼくの存在は奇跡そのものと信じる。19人の命がそうであるに違いなかったように(植松の命だってそうだ。死刑判決の是非はいまだぼくは結論を出せないが、せめて犯行前にそうしたことを「腑に落ちて」考えさせられる機会はありえなかったのだろうかとは考え続けたいと思う。「お花畑」な発想というやつだろうか?)。