跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/05/22 BGM: Takkyu Ishino - Dream Baby Dream

いわゆる「知性」とはなんだろう。今朝、こんなことをしばし考えた。というのは橋本治のエッセイを読むともなしに読んでいて、テーマがまさにその「知性」でありぼくもこのやっかいな概念について考えるように誘導されてしまったのだった。どう書いても込み入った書きぶりにしかならないけれど、ぼくにとって知性ある人とは物事を偏見にとらわれずクリアに、正確に見つめられる人のことを指すかなと思う。そしてこの困難ばかりの現代生活をうまく生き延びられる人のことでもある。ならば、ぼくの人生を振り返るとぼくはたくさんのアホくさいトラブルばかりを繰り返してきて、それがぼくをいまだ「痛痒い」思いにさせてしまっていることに気づき、ぜんぜんダメだと思う。いや、そんなことを言い出せばトラブルがまったくない人生なんてありえないともわかるのだけれど。

ぼくは賢くなんかないとあらためて思う……日記にも書いてきたけれど、ぼくは過去、愛がなんなのかわからないまま生きてきたのだった。そして人生そのものとはなんだろうとも考え込んで。その昔、賢い人(ありていに言えばIQが高い人だ)とはむずかしいことをすぐに理解でき、人生をバカげたトラブルとも無縁に無傷のまま生きられるソツのない人だと思っていた。でもいまや、さっきも書いたけれど、そんなスマートで完璧な人なんていないんだろうともわかってきた。だからこそ人間の価値を見い出せるとも言えなくもないか、とも。昔、それこそ知性派のある人とお会いし、彼女にワンサイド(片思い)の恋心を抱いてしまったことがある。しかしその後、彼女の賢さや彼女の特性といったものは彼女をときに傷つけてきたとも知った。ああ! もっと人間というものを学ばなければならなかった。

ぼくは自分が賢いと思えたことはない。思っていいたぐいの人間だと思えず、つねにぼくは「自分はアホだ、クズだ」と信じ込んで生きてきた。だがそれはまあ別の話として……もしかしたらぼくは「この身体は賢い」と言えるのかなと思う。仕事を始めたら身体はぼくの期待を満足させてくれる。自然に動く身体に任せて、ぼくは仕事をやり遂げられる。あるいは、未知の勘・無意識といった領域のことがらは賢いかもしれない。ぼくが読むべき本にぼくを誘ってくれたりする。午後、ぼくは『畏怖する人間』という柄谷行人の初期の評論・エッセイをパラパラと読んで時間を過ごした。実にタメになる読書だった。

夜、断酒例会に行く。そこで過去の、この日記でも書いてきた初恋をめぐるトラウマに満ちた思い出を語る。10代の頃はまだ何もわかっておらず、飲酒に関して漠然としたあこがれを抱いていた。時代は「アサヒ・スーパードライ」「男は黙ってサッポロビール」なころ。テレビのコマーシャルがいかに酒がクールな、カッコいい飲み物かを競って宣伝していた。20代に入り呑み始め、そんなに美味いというか味わい深い飲み物でもないなと思い始めた。いや、もちろんそれはぼくの舌が子どもな舌だということであり、おいしくビールを呑める人にケチをつけるつもりなど毛頭ないのだけど……その頃、ぼくは自分が実にからっぽな、無価値な人間だと信じ込んでいた。たしかに英文学を学んだり村上春樹を読んだりしたけれど知性派というか教養ある人間にはほど遠く、それどころか生きる価値すらない、と。かれこれ9年断酒してきたのだけれど、もちろんこれは「個人の感想」になるけれどアルコールはいまだ「終わりなき」退屈な生活、うんざりする日々、出口なんてどこにもない閉塞感の象徴なのだった(くどいけれど「個人の感想」です)。