今日は休日だった。今朝、うっすら絶望的というかつらい気持ちを味わい、ぜんぜんその暗雲が晴れない。だから何も手につかなかった。なので気分転換に、アテなどなかったのだけれど図書館に行く。そこで2冊、面白そうな新刊を見つける。キャスリン・ペイジ・ハーデン『遺伝と平等』とマーシャ・ゲッセン『ロシア 奪われた未来』だ。さっそく借りることにして、それで気分が元に戻ってきた。ああ、自分のことながら何とも単細胞だなあと思う。
そして、ザ・スミスの名曲群をSpotifyで適当に聴きつつ(とりわけ『ザ・クイーン・イズ・デッド』を中心に)その『遺伝と平等』をちまちま読み始める。そうだなあ、と思う。この本が記すように、世の中とは実に平等ではないし合理的とも言いがたい(いや、まだ頭しか読んでいないというのにエラソーだが)。たとえば、ぼくは人間だ(仮にぼくが1本の樹だとしたら、なんてふと考えたりするがいまのところぼくはただの凡夫だ)。そして動物で言うところの「雄(オス)」だ。このリストにたくさんつけ加えていくことができる。何度も言ってきたとおりぼくは発達障害者で、エッチで、日本人で英語学習者で……と。だからぼくはこの人生を、そうした要素によって縛られた人間として生きないといけない。ぼくは空を飛べない、億万長者でもない、いずれ死ぬ、などなど。これらは不変だ(いや、変えようとすれば変えられるものもあるだろうけれどきわめて困難だ。少なくとも、その「困難だ」ということだけはわかっておかないといけない)。
このことになるとぼくはいつも、有名な「ニーバーの祈り」を連想する。ぼくは「変えられないものを受け容れる勇気」を持たないといけないのだ……そしてこうもつけ加えたい。ぼくは変えられるなら、自分自身を変えていく勇気を持たないといけない、とも。なぜなら発達障害者として、そうすることはとても難しいからだ(急な事態の変更に弱いのも発達障害者の特性なのだった)。そういうわけで、ぼくは本を読みそうして自分の真の「輪郭」「限界」を掴む必要がある。言い換えれば、難しいものを読んで自分の限界を知ることで想像力の至らなさを学ばないといけない……たとえばぼくはハイデガー『存在と時間』やアインシュタインの相対性理論といった神秘を理解できないが、そうして「わからないこと」に白旗を揚げる過程が必要というか。そのようにして人は「丸く」なるのかな、それがほんとうの意味で「リベラル」な人となることかな、と思っている。
夜になり、東浩紀が去年出した新刊『訂正する力』を読む。この本もそんな「勇気」を説いたものとしてぼくに映った(いや、これはまったく「私見では」というか「個人的な読み」を優先させた、したがって強引すぎる読み方かなとも思うけれど)。このタイトルはただちに「『是正』『改良』していく能力」を連想させる。実に「鋭い」「懸命な」「クールな」精神と温かいハートがなければできないことで、東浩紀という人は両者を持ち合わせた知性派と思う。ぼくはそんな知性派かな、とも思うけれどまあ東浩紀ほど賢くないのは確かなことかなとも思った。東浩紀ほどぼくが賢かったら……いや、やめておこう(ここまで書いたことを裏切ることになるので)。
こんな感じで、ぼくはこれまで難しい、こんがらがった本を読んできた。いや、ただ楽しいからである(暇つぶしや退屈しのぎ、というのもあるけれど)。人生は楽しむためにある、苦行ではない……ぼくはそう思う。これまでの人生はキツすぎたかなと思うので、いまは(死ぬほどハッピーというわけではないにせよ)ほんのりぬくもりを帯びた幸せな人生かなあ、と。