跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/01/11 BGM: 高橋幸宏 - BLUE MOON BLUE

今日は休日だった。いつものようにぼくは図書館に行ってそこで本を何冊か借りた(アントニオ・ダマシオ『感じる脳』『デカルトの誤り』やマイケル・ガザニガ『〈わたし〉はどこにあるのか』、下條信輔『サブリミナル・マインド』『〈意識〉とは何だろうか』といった本だ)。その後、イオンに行き、そこでこれまたいつもながら英語のメモを書き始めた。ああ、なんと変化に乏しい生活だろうか。そもそも、どうしてこんなむずかしくてややこしい本ばかり読んでしまうのか。どんなにこうした本を読んで「勉強」したとしても、決して「教授」的な立派な人になんてなれっこないというのに(ぼくはそんなに才能あふれる、敬虔で真面目な生徒・学徒でもないので)。でも、こればかりはぼくの好奇心というか内なる声というか、とにかくよくわからないものが「読みたい」とささやくから読むとしかいいようがないのだった。だから、今日も今日とてぼくはダマシオの脳科学の巨大で深遠な「沼」に裸一貫・徒手空拳で飛び込む。

そう、今回借りた本は期せずして脳に関するものが多くなった――そして、いまぼくはこの謎めいていて時にやっかいなメカニズムについてどう人に説明したものか考えあぐねている。たとえばなぜ・どうしてぼくの脳はこんな英語のメモや記事を書かしめるのか。もっと「こなれた」言い回しで言えばどうしてこんな英語が(ミスだらけであるにせよ)書けちゃうんだろうか……日常生活で英語を使う機会なんてほんとうに乏しいというのに。あるいは、どうしてこんなマウス・オン・マーズオヴァルみたいな奇っ怪でスットコドッコイな音楽ばかりBGMとして聴いてしまうのか。この複雑怪奇・あきれるほど奇天烈な心の中核にある要素とはいったい何か。そんなもの、ぼくにわかるわけがない。ただやりたいことをやり、それで終わる。ある意味、ぼくは単純で「動物的」(東浩紀)で、子どもというか赤ちゃんというかそんな存在なのだろうなと思う。

最近、ぼくは実にラブリーな、愛おしいコンセプト(概念)である「発達障害」についていま一度考えている。いったいこの言葉はぼくにとって何なのか。かつて、この考え方・言葉はぼくの最後の砦というか唯一の逃げ道だった。このやっかいで狂った、とても生きづらい状況・窮境から抜け出すための手がかり……この言葉に沿って考えればすべてが「わかった」「腑に落ちた」のだから仕方がない(雑談ができない、車を運転できない、異様に運動ができない、などなど)。「発達障害」について必死にぼくなりに学び、楽チンに生きたいと目論んだものだ……でも、いま反省すると結局ぼくは「発達障害者だから何もかもうまくいかないんだ」「発達障害者だから不幸なんだ」とわめいていたというか吠えていたというか、それだけだったかなとも思う。その事実を人前で宣伝・喧伝して……誰にも頼まれたわけでもないのにIQまで晒したっけ。

でも、最近はこんなふうに考えるようにもなったのだった。こうした特徴・特性……つまり「むずかしい本を(ひまつぶしに)読む」とか「発達障害的」とか、そういったことはぼくのアイデンティティの「かけら」「ピース」なのだ。別の言い方をするなら、ぼくという人間はそうした「複雑な」「マルチな」要素で語れる(決して単純に「発達障害」という言葉だけでは語り尽くせない)。ぼくの心とはカオスな「底なし沼」なのかなあ、とも思い始めたのだった……あるいはとても、とても深い海。無限に深い海――それこそカール・グスタフユングが解き明かそうと試みたような。