跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/07/24 BGM: R.E.M. - Be Mine

今日は遅番勤務の日。今朝、イオンで鶴見俊輔関川夏央の対談を集成した『日本人は何を捨ててきたのか』を読み進めて時間を過ごす。鶴見俊輔関川夏央の本はこれまでも何度か折に触れて読んできて、たしかに「学びがあった」「啓発された」と信じてもいる(もちろん、まだまだこれからも彼らの本を読みこみそれらから大いに学んでいく必要があるだろう)。今回の読書もいくつか貴重な学びがあり、彼らの堅実でストイックでもある(とぼくには映る)態度にあらためて敬意を払わねばならないと感じ、至らない若僧・若輩者の「青い」ぼくなりにフォローしていきたいとも思った。

とりわけ、鶴見の見解の基幹を成す考え方として彼がどこまで自らが「悪人」であるか、「不良」であるかを明かしたところが眼を引く。こんなことが気になるのは、ある意味ではぼくだってれっきとした(?)、生まれついての「悪人」だからだ。少なくともぼくは自分のことを「善人」だと思ったことはまったくもって、1度たりともない。読者の皆さんからぼくがどう見えるかぼくにはわかりようがないけれど、でもここから見える観点としてこの文をタイプしているこのぼくという人間はそれこそ「超」、「ど」悪人である(いや、正確に言えば拝金主義・物質主義に骨の髄まで侵された俗物といった方が的確かもしれない)。いつも言っているように、ただのスケベでエロいおっさんである。冗談ではない。なんだか書いていて自分でも悲しくなってきたが。

でも、そんな感じの腹黒い・性悪な人々(ここでは具体的に言えば鶴見俊輔のような「タヌキ親父」)が自分のことを果たしてバカ正直に・あけっぴろげに「私は悪ですよ!」なんて言えるものか。ぼくは鶴見の意見をそれこそバカ正直に・額面通りに受け取りすぎてやいないだろうか。人は、偽善・偽悪など目的はさまざまであれどともあれ「嘘をつく」「騙る」「話を盛る」こともある(ぼくだって嘘をつくのだから)という原則に立ち返らないといけない。それこそ、鶴見はそうして「悪人です」「不良です」と語ることで「この人、マジか?」とこちらを揺さぶっているのかなと思う。ならばその時点で確実にぼくは鶴見の手のひらの上で踊らされているとも言える。いやはや、なんとも奥が深い!

でも、少なくともいまの段階では鶴見はぼくは真の意味で信頼の置ける年長者であり、ぼくにとってぼくが歩むべき道を切り開いてこられたパイオニアとして位置している。もちろん鶴見の歴史を紐解けばプラグマティズムの哲学などがルーツとして見えてくるとは言え、これまでかじってきた本から学んだ限りでは鶴見は彼のダークな、それこそどす黒い本性・本能を彼の哲学の始まるきっかけ・端緒として扱っていると思ったからだ。ぼくのことを振り返っても(いやもちろん、こんなことを書くからと言ってぼくが鶴見と「並ぶ」人間だなんて言うつもりはビタ一文ないのだけれど)、ぼくは自分の考え方を書く際現代思想から華麗に引っ張ってくるなんてことはできない(そこまでたくさん読んでいないし、そもそもぼくはフランス語はぜんぜんできない)。せいぜい子どもの頃の話をしてお茶を濁すのが関の山である。だから「似てる」「この人に憧れる」「あやかれたら」と思ってしまうのかなと思った。

午後、仕事前の時間Discordのあるグループに質問を投稿する。ぼくはどうやって「多様性」という概念と向かい合えばいいのか。どのようにして他人の「多様性」を尊重し、かつぼくの権利を侵害されないようにするために自己を主張するべきか。他人は他人、自分は自分と「バウンダリー(境界線)」を引くべきか。これは問えば問うほどわけが分からないパラドックス(矛盾)になる。というのは、ぼくはもちろん生きる上でぼくの権利を主張するが、他人も他人の権利を主張する自由がある。それがぶつかりあったら、そんな事態においては「多様性(人は人、自分は自分)」なんて言っていられなくなる。ならば、そこで他人と自分の権利関係・利害関係をうまく柔軟に調整する「寛容さ」「多様性」を発揮するためにはどんな知恵が必要なのか。いやもちろんこんなことはここで一気に結論が出るわけがない。他のDiscordのメンバーが正直に・懇切丁寧にこの疑問に彼らの見解を答えてくれて、実に実り多いディスカッションになったと思った。ありがとうございます。