跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/09/22 BGM: 山崎まさよし - セロリ

今日は休みだった。今朝、いつものように図書館に行く。本を選んで借りる時というのはぼくにとって何だか「本能」が働くようで、たくさんある本の列を見ているとふとグレゴリー・ケズナジャットのデビュー作『鴨川ランナー』が目に入った。どうしてそんな本が目に入ることがあるのかわからないけれど、ともあれ借りることにする。その後小林秀雄『学生との対話』やデイヴィッド・ロッジ『考える…』も目に入ったのでこれも借りることにした。その後いつものようにイオンに行き、その『学生との対話』をパラパラと読む。今日は8時からイタローさんとDiscordで対談する予定だったのだけれど、そこで語るべきテーマが少しずつ見えてくる。まさにこんなふうにして「カン(勘)」「インスピレーション」に従って生きること、その「カン」を鍛えるために自分自身は学んでいるということ、などを話したいと思った。そのためにはぼく自身の過去の恥ずかしい出来事について語る必要がある。極左のサークルに入ったこと、宮台真司イカれて口真似をしていた時期があること、酒に溺れた時期があること……「カン」にしたがってそうした悪癖から身を引きはがし、そしていまのような生き方を選んだということなどを話したいと思った(そして、ふと自分が小林秀雄の本と出くわしたのも「カン」ゆえだと気づいた)。

今日は歯医者に行ったり、他にもあれこれ予定を詰め込みすぎていてじっくり本を向き合う時間もなかった。『学生との対話』ももう少し掘り下げて繰り返し読まないとわからないけれど、そこで小林秀雄が言わんとしていることが自分にはつかめるようにも思った。たとえば、将棋における棋士は必ずしも常に「長考・熟考」の果てに手を指すのではなく、時に「直観」にしたがって手を指す(むろん、彼らは同時に恐ろしいほどの粘り強さで「長考・熟考」するわけだけれど)。それと同じで、ぼくもこのポンコツな脳であれこれ考えることを重んじつつ結局はそんな自分の思考能力を超えた「カン」の力に頼っているとも思えてきた。こんなふうに書くとオカルト的な響きが生み出されてくるけれど、ぼくは自分の脳で考えつくことには自ずと限界があるとも思っている。ただ、矛盾するけれどそんな「自分の脳で考えつくこと」は同時に過去の先人たちのコピーに収まらない個性をも備えているとも思う。難しいだろうか。レシピ通りに料理してもそのレシピを裏切ってしまうというか、レシピよりも自分の好みの方が勝ってしまう瞬間があるのではないか、というような話なのだけれど……。夕方、英会話関係のミーティングにZOOMで参加する。そこで、とある方のお悩みにメンバー全員で乗ってディスカッションするという流れになる。異郷の地で英語で書類作成をしているけれど、上司とそりが合わず苦しんでいる……というような話だ。上司に怒られて困っている、と。ぼくは海外で働いた経験がないし、いまの仕事から言えることも自ずと限界があるとも思ったのだけれどそれでも「ぼくは発達障害があって、それでジョブコーチを利用していて、その方に間に入ってもらって……」といったようなことを話す。他の方からもその職場・その仕事から体得した経験からしか生まれ得ない意見が出てきて、有意義な会になったと思う。ふと、ぼくは「たたき上げ」という言葉が思い浮かんだ。たかだかZOOMで話を聞かせてもらっただけで判断するのはもちろん危険だが、自分の経験から「この通りにやればうまくいく」と視野狭窄に陥る人というのはいるもので、今回の話も上司がそうしたタイプなのかなと思ったのだった。もちろんぼくにその方の職場に介入する力なんてこれっぽっちもないが、こうした言葉が英語にも存在しないかどうか調べてみるのも面白いと思った。「たたき上げ」は英語で何と表現するのだろう。夜、イタローさんとの対談(ラジオ)。「なぜ学ぶか」といった話をする。実は恥ずかしいことだけれど、このトピックを思いついたきっかけとしてあったのは柄谷行人の哲学/思想に触れたことがきっかけだった。それがコロコロ自分の中でも目まぐるしく変化して、結果として今日のような「『カン』に従う潔さ」といった話になってしまった。矛盾する響きを持つだろうと思うけれど、「理屈では正しいけれど本能的に『間違いだ』と思ってしまう」ということというのがぼくの中にはある。逆に言えば「理屈ではおかしくても自分には『しっくり』くる」とも。つまり「理屈と本能」が対立する時がくる。その場合、ぼくは本能を取る……といった話をする。過去もそのようにして、結果として「あいつはおかしくなった」「結局人格障害者だったんだ」と言われたりもしたけれど「理屈」で追いつけなくなった人を裏切ることをした。いま、ぼくはそんな裏切りというか絶縁を後悔はしていない。ここから帰納的に言えることとして、ぼく自身についてぼくは「本能」「カン」の力を信じる。今日の英語関係のミーティングに参加するのだって、本選びだってすべて「カン」で動いている。「カン」というか「ノリ」にしたがって、考えられるところは軽く、ユーモラスに考えて動くことが大事なのかなと思い始めている。スティングに倣って「魂に自分を操縦させる」つもりで、そうして生きていく。必ず最後に愛は勝つ……それはカンではなくKANだ(ごめんなさい)。