跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/09/12 BGM: Tears For Fears - Mad World

今日は早番だった。いつものように仕事をする。そして昼休みに詩を書く。Discordで岡田有希子の話題になり、そこからぼく自身の年齢について話が及ぶ。実は今年でぼくは48になる(1975年生まれ、つまり純然たるロスジェネなのである)。Discordを使っていて思うのは実に若い人が多いことで、そういう若い人にぼくはいったいどう映っているのか興味を持つ。そこから、ぼくは大人になれたのかについて考えた。過去にこの「大人になる」ということについてずいぶん悩んだっけ……ぼくが子どもの頃、「オタク」であることがとある誘拐事件を機に話題になったことを思い出す。あの頃はまだアニメやライトノベルやゲームに代表されるオタク文化がいまほど盛んではなかったので、そこからコミケ秋葉原に代表される活発な活動が白い目で見られたりしていたのではなかったか。ぼくはライトノベルもアニメも結局かじっただけの知識しかないのだけれど、その代わり文学や音楽をそれこそマニアックに楽しみ自分の趣味に固執する人間だったので人から「オタクだ」とか言われたこともあったのだった(みだりにこういうことを書くのは差別的な響きが伴うとも思うので気をつけないといけないけれど、そうした「マニアック」「オタク的」な関心のありようはぼくの発達障害と関係があるのかもしれない)。

ここからいろいろな方向に話を持っていくことができるかもしれないけど、今回はそこから「大人になる」ということについてそのまま考えたい。ぼくは情けないことに、自分の内面の成長は思春期でいまだ止まったままのような実感を抱く。ひらたく言えば、ぼくはいまでも「10代や20代の時間」を生きているような気がする。それどころかもっと幼いかもしれない。50代も目の前なのでそろそろ「自分の人生の終わり」や「次世代に託すもの」なんてテーマについて考えないといけないのかもしれないけれど、実を言うと今日だってぼんやり「毎日のんべんだらりと詩やブログで食っていきたいなあ」なんてチューインガムをクチャクチャかみながらアホなことを思ったりしたのだった。過去、50代という年齢についてぼくは古井由吉大江健三郎の小説を読んだり、十河進さんのコラムを読んだりしてつかんだイメージとして「円熟期」というものがあった。バカなことにうつつを抜かさず、落ち着いてじっくり腰を据えて自分自身のテーマと取り組み、内省を深めていく……といったようなことだ。読む本にしてもうわついた本ではなくディケンズを読んだりハイデガーを読んだり(ちなみにどちらもいまだ読んだことはない。『存在と時間』は関心があるのだけれどずっと挫折を繰り返していまに至るのだった)。でも、最近柄谷行人『言葉と悲劇』を読んでいてそこで柄谷行人が言っていたこととして印象に残っていることがある。柄谷はふと、「五歳の子供は、もうすべてを了解しているのではないだろうか」と言っている。五歳という幼い年齢なりにその子は人生の悲哀や不条理感を肌で感じ、そして悟ることさえあるかもしれないといったことだ(とぼくは受け取る)。五歳というのはまあ言葉の綾だろう。若い頃の幼い、まだ何にも染まっていない(よく言えば汚れていない)感受性ゆえにわかることというのがあるはずだ。ぼくはいまでも自分の心が若いというか幼いことを自覚する。ここまで考えて、自分の中のセンシティブな部分というかいまだ大人になりきれていない、すれっからしになれていない部分を思う。そして、そういう未熟とされる時期、人から見れば「すばらしい青春時代」と言われるだろう時期を生きる10代・20代の青少年たちがその内面で抱えている葛藤について思い至る。いや、それを言い出せば老年を生きる人だって葛藤があるわけだ。文学でそうした葛藤を描いた作品はないだろうか(いや、絶対にあるわけでぼくがフォローできていないだけだ。耕治人はすぐれたものを残していたが……あとは誰だ)。特にこれから、老いを語った作品というのは需要があると思う……つらつら書いていくとこんな「で、オチは?」な話になってしまうのである。なんともはや。夜、20時からイタローさんのラジオに参加する。そこで話させてもらう。やはり事前に青写真をもっと作ってから話すべきだったか、頭が真っ白になる瞬間があって話が止まってしまったり、やたら話が込み入ってゴキゴキにねじれてわかりにくくなってしまったり、自分のコミュニケーションスキルの限界(下手くそさ)を知ることとなった。ただ、イタローさんが適宜話を振って下さったのでそれにアシストされて話すことで自分の中の未整理の感情(これも語弊がある言い方をすればアイデアのガラクタ)がすんなりまとまって、それが実にありがたかった。結局、これまた極論というか乱暴過ぎる話になるのかもしれないけど、英会話にしても日常的なコミュニケーションにしても「完成品を差し出そうとする」ことに固執しすぎるのは現実的ではないのかもしれない。いや、自分の中で言いたいことをあらかじめはっきりさせて話すのはそれはそれで大事なことだ。ただ、そうして自分の中で完成させたものを差し出す過程で「それはおかしいですね」ということになり、自分の間違いや限界に気づかされることもあるだろう。その時、それを「ナイスエラーだ」と感じられるかどうか……そうして自分がついついやってしまう「エラー」(ひらたく言えば「しくじり」「恥」)とどう直面するか。そのつきあい方がわかるということも大人になるステップなのかなと思った。