跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/09/09 BGM: Boogie Down Production - My Philosophy

clubhouseが大幅なリニューアルがあり、新しい環境に慣れるのに戸惑っている。そこである方が、「英語力の優劣と人間的な優劣」といったトピックについて話しておられるのを聞く。ある意味これは永遠のテーマとも言える話題ではなかろうかとも思う。ひらたく言えばネイティブではないのに英語がペラペラであること、英語で流暢に自分の思いを伝えられることとはそのまま人としてすごいことかどうかということになる……ある意味ではすごいことなのだ。それは、英語が上手いということはその人がそれだけ勉強/努力したということだからだ。でも、そうした勉強や努力ができない人、あるいはしたとしても身につかない人もいる。それは単純に/乱暴に「その人の怠慢」として帰してはならない話だ。例えばぼくは自動車を運転できない。それは発達障害ゆえの不器用さがあるからだ。それに関して、単純に「努力して乗れるようになりなさい」と言われても困る。それと同じで、個人の資質や特性(それが嵩じると「障害」になりうる)を無視して「努力して英語を喋れるようになれ」と言い放つとおかしなことになるのだろう。ぼくにとっては、英語力とは「個性」の範疇に収まるものだとも思っている。「個性」において抜きん出ていても、それがただちに「人間として」優れているなんて話になっては人の尊厳にも関わってくる。

今日は休みだった。朝、そうしてclubhouseをいじった後に近所のバイク屋に行った。新しい原付を買うためだ。いいものが見つかったので、次の大安吉日である水曜日の午前中に納車してもらうことになりそれまでに行うべき手続きについてスマートフォンのメモアプリに記録する(だからいつも参加させてもらっている英語関係のZOOMのミーティングは欠席ということになってしまうのだった。残念だが仕方がない)。前に書いたことのある、ホーム画面からワンタップでそのまま記録できるシナモロールのメモアプリはぼくに馴染んできたようでいまでも重宝している。読み返してみて、実に緻密にメモを書けていることに自分で驚く始末だ。でも、これにしたってそうした便利なアプリと出くわしたことは単なる「僥倖」「ラッキー」であり、ぼくが根気強いとかそんなわけでは「これっぽっちも」ありえないと思っている。ぼくはただ「ぼくに馴染む」「しっくりくる」方法を探し、生き方を探しているだけであって「無理なことをしようとしている」「頑張ろうとしている」わけでは「まったくもって」ないのである。屁理屈に聞こえるだろうか。そうかなとも思う。でも、そもそもそういう「脱(?)頑張る」やり方を求めるからこそさまざまなライフハック/生活術が流行るのではないか……とここでまた屁理屈をかましてしまうのだった。
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昼にイオンで弁当を食べて、その後歯医者までの時間があったので柄谷行人『言葉と悲劇』や『探究II』を少し読む……こうして絶えず本を読んでいることだって人からすると「すごいですね」ということになるのかもしれない。でも、これもぼくの主観から言えば「いや、他にやることもないし、本を読むことは楽しいし……」ということになる。人の優劣は決して一面的な基準では決まらない。ぼくはたとえ話が下手なので話がどんどんややこしくなってしまうのだけれど、一芸に秀でた人というのは確かにすごい。その人がその分野でたゆまぬ修業/練習をしてきた、その蓄積がそうした「技」を作り上げている。比喩がどうしたって古くなるのだけれどたとえばイチロー羽生善治夏目漱石といったプロが思い浮かぶ。でも、そうした人たちのすごさはたとえば野球や将棋や小説における基準から決められるもので、人とはもっと多面的な基準でジャッジできるとも思う。これまたぼくなりにひらたく言えば「イチローよりうちのお父さんやお母さんの方が料理が上手」なんてことだってありうるわけだ。そうした、自分自身の「優れたところ」「特性」を考慮して生きることはあえて言えば実に合理的で現実的で、ドライな中に血の通った生き方だとも思う。

また次の火曜日の20時から、Discordでイタローさんと話すことになった。今度は英語について話したい。前に書いた、英語を学ぶ上で「自己愛」「自尊感情」を持つことこそが大事ではないかということについて。宮台真司的な言い方になるけれど、「下駄を履かせてもらった自分」に自信を持つのではなく「下駄を履いていない自分」に自信を持つ、ということ……具体的に言えば「一流大学の学生」「一流企業の一員」といった権威をバックに威張るのではなく、そうした肩書きがなくても自分に満足するということになるだろう。いや、英語力に限って言えば自分に自信がない人というか「へたな英語でごめんなさい」と謝ってしまう人はまさに「英語がへた」だから自分に自信がなく、自分に自信が持てないといくら学んでも流暢なスピーカーになれないことに落ち込み……と負の連鎖にはまり込んでしまうのかもしれない(いや、ぼくの中でも整理がついていないのでとりあえず「かもしれない」と仮説だけ書いておきたい)。でも、へたでも何でもいいのである。「ここにいる自分の内側に確かな何かがあり、それはこの自分自身しか持ちえないものだ」と確かに「肚で」「身体で」感じること……それは敢えて言えば「わたしはイチローより料理が上手」といったような次元のことかもしれない。でも、それはわざわざ威張るほどのことではないだろうにしても、それだって大事な「個性」ではないかなとも思う。