跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/09/24 BGM: 佐野元春 - バルセロナの夜

今日は早番だった。昼休み、昨日と同じように原稿用紙きっかり3枚分自分の思いをしたためていく。おかしなもので、ここ最近ずっと英語でチャットしたりあれこれ書いたりしてきたからなのか日本語を書こうとするとなかなかスムーズに日本語が出てこない。原稿用紙に肉筆で書く、というまったく慣れない作業を始めたからというのもあるのかもしれない。ただ、書き始めると思いは湧いて出てくる。きれいな言い方をすれば、これは「母国語を外国語として使う」「母国語の中で『外人』になる」という話になるのかもしれない。ぼく自身はぼくのことを批評的に語る術を持たないが、リービ英雄多和田葉子のような書き手と同じ「エクソフォニー」な体験をしているのかなとも思う……さすがに気取り過ぎかな。グループホームに戻り、ひと眠りした後にそれを英語に翻訳する。昔、うんうん唸りながら英語をひねり出していた時期を思い出す。いまのぼくの英語が完璧なものというわけではもちろんありえないのだけれど、それでも自分のいびつな、おかしな英語を愛することもできるようになった。たぶんこれが「自信」「自尊感情」につながるのかな、とも思う。そう思うと自分自身がこの人生を生きられていることをも幸せに思えてくる。

今日書いたことは、「なぜぼくはこのヘンテコリンな脳みそを持って歩いているのだろう」といったことだった。それはつまり、この自分自身の思考をつかさどるのがこの脳みそである以上ぼくはこの脳みそと切っても切り離せない存在であるということでもある。子どもの頃からそんな苦悩にとらわれて、「なぜぼくはヘンテコリンな人間なのだろう」とあれこれ悩んで苦しんだのを思い出す。それが嵩じて、必死に島田雅彦村上龍などを読み込んで「日本社会の閉鎖性」のせいにしたりした(ありがちだけど)。つまり、トリッキーな言い方をすれば「ぼく自身が間違っている」のではなく「『ぼく自身が間違っている』と言いつける世の中が間違っている。世の中が狂っている」と思うようにしたということだ。他罰的になった、とも言えるだろう(これもまたむずかしい言い方になるのだけれど)。いまはこの「他罰的」な考え方にも問題があると思っている。「あいだ」「はざま」をどう調整するか、つまり「関係」の中でどう問題を解決するかが大事ではないか……ますますこんがらがった話になってしまったが、ぼく自身の見方と世間のものの見方の間で「その都度、正しいことを確認していく」という解決策を採るのがいいのかなと思うようになったのだった。いまジョブコーチを利用しているのもそうした試みの1つだ。仕事が終わったあと、図書館に行く。そこで本を借りた。多和田葉子片岡義男と、あとは平出隆の『鳥を探しに』という分厚い本を借りた。でも今日はそれらを開くこともせず、昨日書いた阿部和重も読めずに結局うだうだ過ごしてしまった。やることもなくなったので昼に原稿用紙に書いたことを清書して、それを英訳する。その後かろうじて村上春樹風の歌を聴け』をかじってみたりその片岡義男『言葉の人生』に触れたりする……Discordで、とあるサーバで自分に自信がないと悩んでいる方のメッセージを読んだ。ぼくは実を言うと、そんなに「自信」に重きをおいて生きていない。これは「言葉の綾」「物は言いよう」という話にもなってくると思うのだけど、英語を学ぶことにしたって「自信があるから学ぶ」のではなく「自信がなくても学びたいから学ぶ(学んでいると自信が身についてくる)」と考えている。英語を学び始めた当初だって、ぼくは「でも、ぼくは留学経験もないし、英語なんてできっこない」と尻込みしていたのである。でも、自信があろうがなかろうがとにかく「少しずつあせらず、『自分を育てる』『成長を楽しむ』」くらいで「ゆるく」「ゆとりを持って」付き合うのがいいのではないのかな、と思っている。夜、Discordでぼくの友だちがチャットのメッセージとして興味深いことを書いているのが目を引いた。勉強をするということの意義についてだ。若い頃、勉強せずにチャットにうつつを抜かすことへの警鐘を鳴らして若い頃だからこそ悔いのないように過ごしてほしい、と……ぼくの過去を思い出す。ぼくは十代の頃、まったく勉強しなかった。勉強することの意義も意味も見い出せなかったのだ。「なぜ勉強しなければならないんだ?」……それは言い方を変えれば「なぜ勉強してまでこんなアホみたいな人生を生きなければならないんだ?」とも問うていた、ということになる。それについて「腑に落ちる」「すんなり得心が行く」言葉を言ってくれる人もいなかったので、ずいぶんそんな自問自答の闇を「さまよった」ことを思い出せる。いま、ぼくはそんな過去のぼくのような「さまよう」人にどう言えるだろう。ぼくはそれでも「学ぶことは続けた方がいい」と言うだろう。でもそれは本を読んだり受験勉強したりするだけではなく、実地のストリート(バイト先など)で実体験で感じることを大事にして社会や外部と触れ合い、そこから傷ついたりしながらも肌身でしみじみ感じることを大事にすることも「学ぶ」ことに含めたいと思う。