跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/06/10 BGM: P-MODEL - 夢見る力に

今日の読書は施光恒『英語化は愚民化』だった。少し前に書かれた本なのでトピックがそれに応じて古いのだけれど(なにしろ「TPP」が登場するのだから)、でも根幹にある問題意識はなおアクチュアルで面白く読める。今の日本では「英語化」の流れが著しい。例えば学校で授業を英語で行ってしまうとか、あるいは企業が社内公用語を英語にしてしまうとか。だが、そんな風潮がいかに日本をダメにしてしまうものなのかを本書はホットな論証を通して語っていく。日本にもかつて歴史上「英語化」の流れがあったが、日本がたどった道はむしろ土着の日本語を鍛えて海外の文物を日本語に翻訳し読み込む方向だった。そうして日本語において森羅万象を語れる能力を身に着けたことがこの日本の発展に役立ったと本書では語られている。そこから引き出せる結論としては、日本語の潜在能力を信じることなのだとぼくは読み取る。「英語の方がスゴイ」と盲信し日本語に劣等感を抱くのではなく、日本語を公用語として使いこなすことでここまで日本が発展してきたことを誇ることが大事だ、と。それは散見されるあられもない恥ずかしいナショナリズムというか、「日本スゴイ」的な安直な風潮とは違うとぼくは判断する。

ぼく自身、英語を学び続けている身だが日本が英語が公用語だったらよかったのにと思ったことは一度もない。確かに英語が公用語であればぼくはもしかしたらぼくが尊敬する知識人・文学者の書いたものを原語でスムーズに読めていたのかもしれない。それはそれでもちろん有意義なことだ。エドワード・サイードオリエンタリズム』をぼくが英語で読みこなしていて、それを基に海外の人々と議論を交わしていた可能性があったのかもしれない……だがそうなっていればぼくは今のように大江健三郎村上春樹を端正な日本語で読めなかったわけで、そこから失われてしまうものも確実にある。英語はグローバル言語であり多くの人が生活やキャリアのために学んでいるという事実は歴然として存在する。もちろんそれを無批判に受け容れることはそれはそれで問題がある。それは端的に「言語帝国主義」であるからだ。英語の独り歩きが周縁に属する日本語や、大げさになるが海外のマイノリティが語るクレオール言語のような言語の美しさ・豊穣さを捨ててしまうことになるかもしれない……その可能性は常に気にかけておく必要があるだろう。

ぼくは知識人でも政治家でもないので、これに関してなんら有効な意見を語れない。せいぜいぼくはぼくの生き方として、日々ぼくが使う日本語に磨きをかけたいと書くのが精一杯だ。そして英語はそのための方便・手段である……その意味で英語を学ぶことはぼくにとって、日本語を捨ててしまうことを意味しない。逆だ。ぼくの中にある日本語を豊かなものにしたいがために英語を学んでいる、と言っても過言ではない。そうした異国語を学ぶことが母国語を豊かなものにしうる(もしかしたら逆説的かもしれない)事実が成り立ちうることをぼくは村上春樹多和田葉子、あるいはナボコフといった書き手から学んだつもりだ……と書いてきて、ぼくの日本語は日々どんな風に変化しているだろうかとも考えてしまった。ここ2年ほどぼくはこうして日本語と英語で日記を書くことを続けてきたのだけれど、果たして「向上」しているのか。前よりはスラスラ英語が出てくるようになったかなとは思うので、それが人間の可能性というか潜在能力の面白いところだなと思う。

だが、このぼくの立場にも当然問題というものはある。そうしてぼくのようにバイリンガルに物事を捉えて考えることはある種「そうできる人」というか、もっと雑駁に言えば「賢い人」「特権階級」だからこそできることではないか、というように。その批判に対してぼくはどう答えたらいいのか考えている……英語を学びつつ、言語帝国主義の流れに棹さして「日本語を守る」こと。その矛盾を生きられないものか。やれやれ、何だか力みまくった日記になってしまった。そして映画や文学が教える「母国語さえ学べなかった人々」の苦労を知るにつけ、ぼくは改めてこの国で生まれ育った僥倖を思い知る。「読み書き」を学べるシステムが完備していて、翻訳で先述したエドワード・サイードオリエンタリズム』などのさまざまな文献を読める環境が整っていてそれゆえに難解な文献も日本語で楽しめるという国(誤訳に悩むこともないでもないにせよ)。それは言うまでもなく、先人たちが切り開いた道があってのことであり、つまりは彼らが流した汗の賜物だ。そんな国に生まれた人間としてグローバルに「母国語を鍛えることの大事さ」を主張できるだろうかと思う。ぼくが「生きた証拠」になればいいな、と。