跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/09/13 BGM: Fishmans - 忘れちゃうひととき

ここ最近感じていることの1つとして、日本語を自分の中でどう位置づけるかというのがある。言うまでもなくぼくにとって日本語は母国語であり、こうやって日本語であれこれ書くことができる程度にはぼくは日本語に堪能である(と、思う)。そしてそれゆえに、後にも書くけれどこれまでぼくは「無理をして」いたのかもしれなかった……最近またDiscordでチャットで日本語を使うようになって、ぼく自身から出てくる日本語を眺めてそこにある種の「新鮮さ」を感じるようになった。ひと口で言えば「ぼくはこんな日本語を使ってきたのか!」と思ったのである。大げさに言えば、いまのぼくにとっては「ぼくから出てくる日本語」もまた「外国語」のように確かな違和や新鮮さを持つものとして映る。それだけ英語をやりすぎたのかな? 「ぼくの日本語」はどうやって練り上げられたのか(たとえば、なぜぼくは「ぼく」という一人称を使い始めたのか?)。そんなことについても思いが及ぶ。今日は休みだったので朝、新しい原付を取りに近所のモータースに行く。そして納車してもらう。その後、時間的に間に合ったので毎週水曜日恒例の朝の英語関係のZOOMでのミーティングに参加させてもらい、英語を披露する。今日もまた楽しいひと時を過ごせてありがたく思った。

そこで面白いことがあった。ぼくはいつものように努めて英語で説明しようとしてあれこれ奮闘していたのだけれど、「ぼくの住んでいるマンションは1階が駐車場で、2階から住居が始まって……」と言ったことが英語にならず結局日本語で説明することになってしまった。その時、ぼくの日本語の中に播州弁(つまり関西弁)が入ってしまい、それが他の方から新鮮に映ったようだった。ホストの方からも「おお!」と指摘されて、少し恥ずかしいと思う気持ちが出てしまった。でも、冷静に考えれば訛りを恥ずかしいと思うというのも妙な話だ。どこに住んでいても(極端に言えば東京に住んでいたとしても)その土地のアクセントや個性というものは必然的に言葉ににじみ出るものではないか……なら、ぼくの播州弁はぼくの個性でもありうるわけだ。何ならアイデンティティの1つのかけらとさえも言える……そんなことを考えていたせいか、下ろしたてのその原付で図書館に行った際にリービ英雄の『日本語を書く部屋』『アイデンティティーズ』をまた読みたくなったので借りる。リービ英雄について関心が高まるようになったのも思えばぼくが英語を学ぶようになり、ぼくの中の「バイリンガル・エキサイトメント」を意識するようになったからだ。そのリービ英雄の『日本語で書く部屋』を読み進め……そこでリービが、ぼくならぼくが日本語で(つまりぼく自身の母国語で)書く際、どうしたってその日本語/母国語から外へ出る必要があるという旨のことを語っているのが目に留まる。「日本語で書く自分」「日本語を選んでしまう自分」を決して「自明」「当たり前」のものだと思わず突き放して眺めることが大事なのだ、と言っているようにぼくは受け取った。ならば、ぼくはそうして突き放して「日本語で書く自分」を眺められているだろうか。いや、ぼくの場合は突き放しすぎて「英語で書く自分」に深くのめり込んでしまっていたともあらためて思った。「何が何でも(ぼくにとって外国語である)英語をマスターするのだ」とクソ真面目に考えて、それで柔軟さを失い完璧主義のワナにハマっていたな、と……そう言えば今朝のミーティングでもそんな完璧主義について話が及んだのだった。もちろん完璧さを目指してプランを立てたり継続して英語なら英語を学び続けるのはいいこと(理想)ではある。だけど、誰だって失敗はする。あるいは青写真通りにことが進まなかったりして「臨機応変」にあれこれ(時には諦めたり諦めなかったりして)軌道修正をする必要だってある。そこで必要なのはある種のしたたかな「ゆるさ」だろう……話がまた飛んでしまった。夜、断酒会に行く。そしてそこで、両親との関係について話す。過去にぼくは呑まれていた頃、一軒の家に一緒に住んでいながら両親とはぜんぜん口も利かず自分の部屋に引きこもって暮らしていた。両親のことを毒親と見なし、あやしげなアダルト・チルドレンやその他トラウマについて書かれた本を読み漁ってひたすら憎み……そうしないと生きていけなかった時期だった。とはいえ、もちろん両親には悪いことをしたといまでは恥じる気持ちがある。いまはこんな育てにくい子をここまで育ててくれたこと、いまも見捨てないでいることに感謝の念しかない。その後、朝や昼に書けなかった詩を書く。ソネット形式でいつものように韻を踏んだものを書こうかと思ったのだけど単純に「飽きが来た」という怠惰極まりない理由により、散文を書き流してしまった。書きながら、スムーズに自分の中から英語が出てくることにもあらためて驚く。いや、ネイティブスピーカーのチェックを踏まえたわけではないけれど、それでも日本語や英語に関して前とは(良くも悪くも)違った関係を築けているということになるのかもしれない。外国語として日本語を使う……もちろん錯覚だろう。でも、そんな錯覚を確かに感じられるようになる程度にはぼくも「習熟した」……というのがうぬぼれ過ぎならば少なくとも「変化はした」のかもしれない。