今日は早番だった。昼休みに弁当を食べて、そして近所のイオンのフードコートに行きそこでぼんやり考え事をする。この人生はいったい何だったのか、といったことを考える。まだまだ人生のまとめをするには早すぎると思うけれど、それでも1998年だったか、この仕事を始めてから実に25年になるのかと流れ去った時の厚みについて考え込んでしまった。今年でぼくは48になるのだけれど、漱石が晩年(彼は50歳で亡くなったはずだ)に残したエッセイ『硝子戸の中』をめくったりしながらふと「この人生というのはまったく、長いような短いような……」と思ったりする。いや、難病で苦しんでいる人からすればこんな詠嘆はまさに罰当たりと言うものだろう。でもぼくの率直な実感を書くことを許してもらえるなら、ぼくは一時期ほんとうに夢も希望も失って精根尽き果ててアルコールの沼に溺れる日々を過ごしたのでそんな酷い日々を送ったにもかかわらずいまこうして暮らしていることが不思議なのだ。そして、そこから断酒して、発達障害と向き合い始め、英語を学び直し……まさに自分の人生はある種の激流/奔流を描いているようにも思う。これからその流れはぼくをどこに運び去るのか。別の言い方をすれば、あの日々はまさに別の次元/位相に属する悪夢のような日々だったとも思う。
あの日々。学校ではさんざん「ひねくれ者」「変人」扱いされて、そして友だちもできなかったので教室で本を読むばかりであとはずっと死んだふりをして過ごして……村上春樹や柴田元幸を読みながらまだ見ぬ東京に思いを馳せて生きていたことを思い出した。その後東京の大学に進学して、そこでも結局友だちもできず孤独に過ごすしかなく、鬱をこじらせて就職活動もぜんぜんうまくいかず、そしてこっちに戻ってきて……いつしかそんな日々の中で、自分の中の怨恨というか恨みつらみが嵩じて「自分に辛く当たった人たち、いじめたやつらに復讐したい」と思い始めたことを思い出した。ああ、いつかあいつらの住所を調べて、家に火をつけるか何か嫌がらせをするかしたい、と思って……それはもちろん犯罪なので、ならば「そいつらよりも社会的に偉くなって見返してやる」と思ったりもした。「自分はこんなところでは終わらない」「絶対に成功してやる」と思い、「夢は念じれば叶うものなのだ」と信じ込んで……そうして無理をして生きてきた。でも、ならば「いま」はそうした思い込みからは(完全に「解脱できた」とは言わないにせよ)それなりに逃げられたとも思う。人から見ればどうなのかはまったくわからないのだけれど。仕事が終わったあと、また図書館に行きそこでリービ英雄『バイリンガル・エキサイトメント』と保坂和志『カフカ式練習帳』を借りる。だけど今日は何だか眠くて、夕食を食べたあと横になりそのまま小一時間眠ってしまったりして過ごす。詩をいつものように書く……いまそうして自分自身が取り組むべきミッションに取り組み詩を書いていると、おかしなものでそれだけで満ち足りて時が経つのを忘れる。「人よりも成功したい」と思うのは「人と比べて」自分自身がいかに優れた存在であるかを確かめることだけれど、そんな人に振り回された生き方ではない「自分がほんとうに好きなこと」「時間を(もっと言えば寝食を)忘れて没頭できること」をやっているという手応えを感じる。その幸せが自分にはありがたい。そして、その幸せにたどり着けたのは出会う方々にいつも支えられているからだろう。英語関係のミーティング、発達障害を考えるミーティング、などなど。ありきたりな言い方になるが、失ったもの、もう二度と取り戻しようがないものに固執するのではなくいまあるものに幸せを感じ、大事にすることをぼくは日々学んでいる。そうして生きてきたことで、まるでしゃぶしゃぶの鍋の中に漬けた肉のように余分な脂ギッシュな成分が抜けていまのようになったのかなとも思った。夜、ZOOMを立ち上げミーティングに参加する。そこでお子さんたちの食べ物の好き嫌いをめぐる話題について話す。好きだった食べ物、どうしても食べられないもの、などなど。ぼくは酒に呑まれていた頃、どうしても清酒や焼酎が呑めずビールばかり呑んでいたことを思い出した。これもぼくが子どもっぽい舌というか味覚を持ち合わせていたことの証左だろう(だからこの歳になってもぼくは「お子様ランチ」みたいな食べ物に心をときめかせてしまう)。いまは水を呑んでその味を確かに味わうこともできるし、舌が変わってきたことを感じる(いやもちろん、酒は金輪際呑むつもりはない)。そのミーティングの席で英語を通した表現(つまり、英語でぼくたち自身が何かを発信すること)についても話が及んだ。ぼく自身は普段ミーティングでは積極的に発言もしないでぼんやり「聞き専」に回っているという情けない存在なのだけれど(いったいどう話を遮ったらいいのかわからないのです)、それでもぼくがお役に立てることがあれば貢献したいと思った。そして、あらためて各発表者の個性が浮き彫りになるこうしたプレゼンテーションを楽しめること、そうした場に誘っていただいている好意をこそありがたいとしみじみ思う。そうしたありがたさは噛めば噛むほど味が出る旨味・滋養があると思ったのであった。