跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/04/25 BGM: Tokyo No.1 Soul Set - ロマンティック伝説

いまに至るも……プライベートでたしかにいまではたくさん友だちがいるのはわかっていても、それでもぼくはときおり孤独を感じてしまう。たぶんそれはぼくが心のどこかでこの世界に対して疑いを向けてしまい、疑心暗鬼になってしまうからなのだろう。でも、だとしたらそれは理由がぼくの中のそうした猜疑心ゆえのことであって、なにもかもぼくのせいということになる。そうなのだろうか。

その昔、ぼくはあの当時クラスメイトだった人たちに自分のトラウマ的な出来事について打ち明けたことがあった。するとある人がこう言った。「深いね。でも、誰だって思い出したくないことなんてあるもんだよ」。こんなことを言われて、崖から突き落とされたようなつらい気持ちになってしまったことをいまでも思い出す。いや、実にうんこみたいなコメントだ……とは言わない。逆だ。皮肉ではなく、彼のコメントは正直で親密な、親身な姿勢から出たものであることを疑わない。そして、部分的にはその彼の真理にはうなずけるところもある。というのはこの日記でさんざん書きなぐってきたことというのは発達障害者には実に「あるある」なことばかりだからだ。でも、彼の意見を反芻してぼくは書く。そんなこと言われたって、いったいどうすればいいっていうんだろう。

いろんなこと(あらゆること?)を厳格に・論理的に考えようとしてそれこそ「闇堕ち」しそうなほど頑固なわからず屋になってるんじゃないか……なんてことを考える(でも言っておきたい。いつだってぼくはこの皮膚感覚・生理感覚から論理を立ち上げている)。はてさて、いったいぼくは生まれついての哲学者なのか不惑をすぎて哲学を始めた遅咲きなのか。足あとを振り返ると、まあこんな発達障害的なキャラクターがあってぼくは孤独にならざるをえなかったのかなあ、いまもそうだったりして……なんて思う。

過去にぼくはもう、友だちを持つことを否定し、あきらめたいと思ったりもした。ありていに言えばそんなふうに親身になってくれる人が現れるなんてことが起こるとはまったく信じられなかったからだ。当時、そんな惨めったらしい時期(ど田舎で過ごした、「地獄の季節」としての10代)誰もがぼくを嫌って、悪意を以て接してくるとばかり思っていた。いや、「いま」なら別の可能性を考えつく。書いてきたように、そんなふうに考えてしまうのはぼくの中の猜疑心や被害妄想のせいということだってありえたのだ。極論を言えばぼくの内面の問題だったということだ。だから、ぼくはひとりぼっちで終わりなき「心の戦争」を戦わざるをえなかったのだ。

これはまた別の視点ということになるが、2つのライフハックのあり方があると思う。1つは、そんなふうな歪んだ感覚や妄想を文字通り「呑み込む」こと、肚に「溜める」ことだ。そして沈黙を貫く。もう1つはまったくもって対照的に、それこそ公に「吐き出す」ことだ。考えれば考えるほどベストソリューション(最適解)がわからなくなるが、どっちの方法もいいところがありしたがってオーケーなんだろうと思う。つまり、どっちが悪いわけでもないので白黒つけられることじゃないというか。だからあとはぼくは心の中の勘というか本能のつぶやき・ささやきに耳を傾けて信じた道を行くのみだ。