仮になのだけれど、ぼくが友だちに「ぼくのこと嫌いですか」と問うたらどうなるだろうか。彼らはなんと答えるだろうか……過去、大学生の頃だっただろうか、やっと十代の頃の田舎の閉鎖的な人間関係を脱して友だちができたというのに、そして友だちは「大丈夫、友だちだよ」とわざわざ答えてくれる度量というか懐の深さを示してくれたというのに、ぼく自身はなお「嫌われてるんだ」「嫌われてるのかなあ」と猜疑心に取り憑かれていたのを思い出す。仮に「信じてる。大好きだ」と言ってくれたとしても、当時のぼくはほんとうに疑り深い心に凝り固まっていたので「ぼくのことを思って嘘をついているんだ」と思ったのだと思う。ある意味では、深いこんがらがった心の迷宮の中でぼくはさまよっていたのだろう。いや、だからといって友だちに不義理を働いてもいい原因にはならないかもしれないにしても。
この種の話題について、ぼくはR・D・レインのぼくにとっての永遠の名著『好き? 好き? 大好き?』を思い出す。あの古典の中で、レインはこうした不信・猜疑心の悲しみを語っていた。もし人がそうした迷宮の中でさまよわなければならないなら、誰の声も心の扉を開けることはできないだろう。なら、ぼくはぼくの「私語り」しかできないのだけれどそれでもぼくのライフヒストリーにおいて、どうやって上に書いたような迷宮から出られたのだろうか。
なぜそんな迷宮から脱出できたのか、理由は言えそうにない。そしてなぜぼくが、嘘をつくかもしれないジョブコーチを信頼するのかも(人間である以上、ぼくだって嘘をつくのだからそのジョブコーチに100パーセント本音ばかり話して欲しいなんて無茶は言えるわけがない)。このことについて考えるとぼくはレディオヘッドの名曲「マイ・アイアン・ラング」を連想する。「信頼、お前のせいで頭がおかしくなりそうだ」。ぼくたちの心は見えないし、ぼくの心がそうであるように簡単に変わる(ぼくの心ときたら液体みたいなもので、形も持たないし掴みどころがまったくない)。ふと、ウィトゲンシュタインが心について議論していたのを思い浮かべる。
ぼくがさしあたっていま、言えることと言えばこうしたことになる。ぼくは言葉における(というか言葉で表出された)コミュニケーションばかりを信じるわけではない。言葉だけをコチコチに信じ込むわけではない。証拠なんてまるっきりありえないことであるにしてもこの第六感を信じることだってある。どうしてこんな離れ業ができるんだろうか。たぶんにそれはくだんのジョブコーチや友だちといろんな経験を積んできたからだ。あるいは、これまで楽しんできた本や音楽なんかも勘を鍛えてくれたはずだ……なんだかとても難しい、複雑怪奇な話になってしまった。