この本を手に取ろうと思ったきっかけというのは、ふと最近仕事中に「ぼくの人生とはいったいなんだったのか」と思ってしまいそこから秋葉原の無差別殺人のことを思い出してしまったからだった。2008年に起きたあの痛ましい、無垢の人たちが命を失わなければならなかった事件だ。仲正のこの本では彼の犯行について印象や時代風景が分析されていく。だが、そうした分析を読み進めていけば行くほどこの本の分析の射程は「このぼくの生きづらさ」にも迫っているとも思った。まさにあの犯人が非正規雇用の身であがいてネットに救いを求めたように(そして果たせなかったように)、ぼくもまた過去に癒やしがたい大欲というか強欲を抱えて苦しんでいたからだ。いわゆる「承認欲求」「かまってちゃん」な心理というやつであった。
どうやったら他人にこの社会の一員として認めてもらえるのか。どうやったら一人前の人間として受け容れてもらえるのか。そうした「承認欲求」……まだ若くてとても愚鈍だった頃、ぼくはあがいた挙げ句そんな欲望をドブに捨ててひとりぼっちで嫌われ者として破れかぶれで生き延びる肚をくくろうとまで思った。そんな欲望を抱えていても結局「誰からも好かれる」なんてことは幻想でしかないし、それにぼくは(ぼくの性格に問題があるせいで)とりわけ嫌われ者として扱われることが多かったから。だから「友だちなんかいらない」と思い、書物と音楽のソースに触れてぼっちで生きることを決めたりもしたのだった。そうやってぼっちでタフに生き、ニーチェなんかわかるわけもないのに「超人」を気取ろうとして。でも、こんな考え方こそ非現実的な妄想であり、もっと言えば不可能なのだった。
日記にも何度も記してきたとおり、ぼくの人生は40で変わった。リアルで、ひょんなことからいまのジョブコーチとお会いして、そしてその他にもほんとうに心を許せる(だが同時に厳しくも優しい、真に信頼できる「諫言」「苦言」を下さる)友だちができたりもして……そしてその後、ぼくは英語をふたたび「昔取った杵柄」で学び直し始めたりもしたのだった。こんなことはまったくもって予測できるわけもなかったが、俗に言う「コミュニケーション・スキル」というやつもそんな活動を通してちょっとばかりは向上したのかもしれない。頑固な、つめたい氷のような偏見が他の人の親身で寛大な態度で溶かされていって心がオープンになったというか。
今日はジョブコーチ面談があり、ジョブコーチとぼくは職場やぼく個人の問題についていろいろ話し合った。不眠、グループホームの新しいスタッフについて、そしてぼくの「認知の歪み」について。ミーティングが終わって、そのジョブコーチの方が「いまから、少しずつ定年後のライフプランについて考えていくのもいいですね」とおっしゃった。そうした考えはたしかにこれからの人生を生きるのに必要だろう。でも……そんなポジティブで建設的な心持ちを持って生きていくのがとてもしんどかったこと、鬱を抱えて地べたをはいずり回ってそれこそ冒頭で書いた秋葉原無差別殺人の犯人のごとく「あいつら全員痛めつけないと死んでも死にきれない」と身勝手な憤りに燃えていたことを思い出した。ああ、それを思うとたしかにぼくは変わることができたのだと思ったのだった……。