気持ちの中の「やる気」をどう扱ったらいいのだろう。このぼくの内なる意志、ぼくを動かす意志をどう感じたらいいのか。今日、実を言うと仕事に行くべきだった。でも、もう無理だと思った――だから行かないこと、はっきり言うと「逃げる」ことに決めた。LINEでジョブコーチにこのことを確認した。怠けているのですか。行くべきですか、と。彼女なら忌憚ない意見を言ってくださると信じて。
すぐに返事が帰ってきた。それはもうOKだと。人生を幸せに生きるためには休息することも必要だ、と記されていた。その方はぼくの幸せな人生を願っている、といつもおっしゃる――それで職場に電話を入れて意志を伝えた。休むことを試みた。哲学書を何冊か読もうかと思った。廣松渉『世界の共同主観的存在構造』など(理解に苦しむ、と思われるかもしれない。でも、ぼくは時にこうした本を必要とする。イマジネーションつまり想像力、あるいはこの気持ちそれ自体をこの世界から切り離して遊ばせるために)。でも、じっとしていられなかったのでパソコンに向かってDiscordに浸ってしまった。
午後、昼食を摂る。本を読もうと試みた。現実逃避だ、現実と戦え、と言われるならそれもしょうがないと思う。確かにそのとおりだからだ。現実に立ち向かい、戦い続けてこのおそろしい世界を生き抜く――でも、許してほしい。少しの間だけ。決めたのだ。阿部昭『緑の年の日記』を読み、彼の仕事がまだ生々しくこちらの心に響いてくると思った。多くの読者を勝ち得た作家とは言えないかもしれない。彼の本を薦めたい。日本文学に興味があるなら……。
読む試みと並行して、ぼくは眠った。たくさん貪った。確かに、確かなエネルギーを補うことができた。身体というか脳が遠い昔からこの種の休息を欲していたのだと思う。もし職場に行っていたらどうなっていたことか――わからない。でも、実際に働くことは必要だと思う。いまの仕事を辞められたとしても、仕事をすることはぼくにとって必要不可欠だ。そうした社会的な関わりがぼくのアイデア、ぼくの哲学を鍛える。お金ももちろん大事だけど。
夕方、Discordで議論をする。人から、この冷静な話し方を褒められた。ありがたいと思った。そしてメモ。この本を見つけないと。それは真木悠介『時間の比較社会学』だ。