跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/02/24 BGM: Simon & Garfunkel - A Simple Desultory Philippic

今週のお題「習慣にしたいこと・していること」
どれだけ役立っているのか、さっぱり見当もつかないのだけれど……2020年からぼくは英語でいろんなアイデアの断片・破片をメモパッドに書きつけることを試みはじめた。姫路に行ってそこでドクターとお会いしたあと、その姫路にある東急ハンズの文具のコーナーで小さなメモパッド「ニーモシネ」を見つけた。そして、それを使ってみることを思いついた。その後、4年間にわたって毎日このメモパッドにせっせとメモを書きつけているのだった。

いったいぜんたい、どうしたってこんな「英語を使うこと」を思いついてしまったのか。わからないけれど、でも英語を使うことはぼくに向いているみたいで続けることができている。ぼくは意志が強いわけではないし(強かったらもっと1冊の本をねばり強く読んだり、偉大な仕事ができていたりするだろう)、それに生真面目な人間というわけでもないかなとも思う。なので言えることはただ、こんな感じの習慣はその人に合ったものさえ見つけられれば「誰でもできる」ということに尽きるということだ。「誰でもできること」だ(大事なことなので2度言う)。

日本に住んで・暮らしていればわかるように、日本の日常生活で英語なんてめったに使うものではない。日本人のぼくたちは英語を実に熱心に・虚心に学ぶが、マスターするのは至難の業だ。この英語メモの習慣をはじめたとき、ぼくは自分のアイデアを説明するためのしっくりくる言葉を見つけられずにほんとうに苦心惨憺たる思いがしたものだ。この域に達するまでには練習・修練が必要だった。

そして、自分に向かってこう自問する。この習慣は自分自身を変えたのだろうか。確かにこうすることでぼくは実際に英語を使う機会に恵まれた(なにせ毎日書き続けたのだから)。ぼくにとっては英語を使うことは別世界・別次元に移動することを意味するようだ。いろんな本に書かれているように、外国語を使うことは未知の・眠れるパーソナリティ(人格)を見出すことにも通じるようだ。慎重に考えなければならないことがらになってくるが、英語を使うことがぼく自身の人格を込み入った、「深い」ものにしていることは確かなようだ――と書くとしかし、「英語を使えない人間は単細胞だとでもいうのか」という話題になってくるので難しいのだった(そんなことはもちろん「ありえない」と思う)。

今日は早番で、その後Discordでミーティングを楽しむ。そして、ぼく自身の友だちであるビクトリアさんの主宰されたzoomでのミーティングに参加した。そこでぼくたちは、『ギヴァー』という小説を読んでいきながらディストピアについて話し合った。さまざまな名作群を思い出してしまう。ジョージ・オーウェル1984年』、あるいはテリー・ギリアムの映画『未来世紀ブラジル』(ここでふと『トゥルーマン・ショー』はどうだろう、と思ってしまう)。ただぼくの英語力ではなかなかディスカッションに追いつけず、したがって蛮勇を奮ってもっと会話を鍛えないといけないとわかった。それだけでも収穫というものだった。ビクトリアさん、ありがとうございました!