跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/04/29 BGM: Deee-Lite - Groove Is In The Heart

梶井基次郎の名作をパクったような書き振りになるが、ぼくはいまなお自分の中に「えたいのしれぬ」空虚が存在するように感じることがある。喪黒福造的に言えば「心のスキマ」で苦しんでいるというか。今朝、時間があったのでまた本を読もうかと思ってしかし身が入らず、結局このことについてあれこれ思いにふけってしまった。もうご存知のとおり、ぼくは10代に村上春樹と出会ってからたくさん本を読んできた(いや、正確に言えば酒に溺れて読書どころではなく文字通り「生ける屍」だった時期もあったのだが――その時期はもう「来世に期待しよう」「未来なんてろくなもんじゃない」と投げやりになってしまっていた)。当時は本というものはそうして読めば読むほどぼくを導いてくれる役割を果たすと信じていたが、いまもぼくは巨大な迷路の中をさまよっていて出られないままのような気がする。キューブリック『シャイニング』のエンディング近くに登場する迷路のような、あんな感じで。

文学・哲学・音楽の多彩な、豊満なリソースに触れて……過去に、ミツバチのような勤勉さでそうしたアイテムを集めて自分だけのテリトリーというか「牙城」を築いてオタク的な生活をしていたのを思い出す。家来なんて1人もいない王様、というか。当時のことを思い出すと、人とあれこれクラブ活動や野外活動を楽しんだという記憶なんて「これっぽっちも」出てこない。ただ、フラストレーション(欲求不満)を抱えてくすぶって腸が煮えくり返る思いに取り憑かれて、したがって鬱屈していたということくらいだ。誰かがドアを開けてくれるべきだった、と書くと他力本願すぎるかな? いや、開けてくれていたとしてもあの頃のぼくは人間不信に取り憑かれていたからそのありがたみをついにわからないまま「闇堕ち」していただろうけれど。

だからそんな感じで、ぼくは実に白昼夢というかバカバカしい妄想というか、さすがに生々しくは書くのは控えるにせよエッチな女の子がたくさん登場するような、そんな「泥沼」に溺れていたというのが実態なのだった。10代の浮ついたロマンスなんてなかった。それによってぼくが成長するなんてことも起こらず……20代、そして30代でさえも自分のことを社会が生んだ犠牲者・被害者だとか逆恨みしたりなんかして(「ありがち」な話だ)。40になって、いまの人間関係にめぐりあえて歯車が回り始めて、そしてブザマであろうがなんであろうが生き直そうかなと思い始められるようになったのだった……。

そんなことをあれこれ考えて、いま思うのはこういうことだ(いや、40になって気づいたのだから人からすれば「遅すぎる」という話でもあるにせよ)。試行錯誤によって自分を鍛えることによって、人は成長する。裏返せば、成長するためにはそうして汗をかくしかないのだろう。過去、ぼくは文字通り「箱入り息子」だったので(いや、いまさらこのことであれこれ誰かを咎める気はないが)、文字通り「イノセント」「世間知らず」なまま終わらない夢に浸っていられたのだ。だからこの話題になると、ぼくはどうしたって頑固な時代遅れの「オヤジ」「おっさん」になる。スマートフォン片手に街に出て、この世界のリアルな動きを全身で体感することは何物にも勝る喜びを与えてくれるのではないか、と信じる。