卒業式の式典あるいはイベントを行う際、そんな催しは人生に1つ「区切り」の句読点を打つことを意味するのかなと思う。学生時代の終わり、青春の終わり、などなど。ぼくの場合は大学を卒業してからもある意味ではそんな「区切り」はつけられず、つまりは青春(カッコつけて言えば「モラトリアム」)を終えられなかったのかなとさえ思う。そんな青春を終えられた、ほんとうに卒業が叶っていまの生活に移行することができたのは……いつだったか。ときおり、ぼくはまだ20代は30代の青春を「引きずって」生きているのかなとさえ思うこともある。実際のぼくの20代・30代はそれこそ酒でベロンベロンになって生きていたのだけれど。
こんな話題になると、ただもう謝るしかない。というのは、当時ぼくにとって別の道、別の人生というものが事実上ありえなかったからだ。この星の、こんな片隅の田舎町。とても小さな町ので、友だちもおらず同じ世代の人とも知り合うこともなく、ただアルコールだけが友だちだったという暮らしぶり(恥ずかしい……いま思えばぼくは両親と暮らしていたというのに孤独を気取っていたのだから)。ああ、いまの友だちと出会い、そして発達障害を考える会合に参加するようになる40のあの日まで、実に長い期間を暮らしたのだった。
その日から、友だちと一緒に自炊の方法に代表されるさまざまなテクニック/サバイバル術を学び……ある意味でぼくはそうしてアルコールに溺れた、なんの望みもない青春時代とサヨナラすることを始めたのだと言える(そして、先の見えない予測不能な未来に向かい始めたのだった)。ぼくは古臭い、身のほど知らずな野心を捨てることをも始められたのかもしれないとも思う。偉大になりたい、ビッグになりたい、という。そんな野心はぼくにとってあまりにも重く、したがって動くのに邪魔で身動きが取れなくなるからだ。夢を捨て、そして大人の人生を生き始めたのかなとも思う。これもまたカッコつけて言えば、「通過儀礼」「イニシエーション」かなとも思う。
誰にも当てはまる、最強の真理・真実なんてぼくには言えっこない。でも、ぼくに言えるのはある意味ではそうして「あきらめる」「捨てる」ところから始まる人生もありうるということかな、とも思う。アルコールを「あきらめ」てシラフになって、そしてぼくは今日もぼんやり、まったり生きてしまった。