跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/07/25 BGM: United Future Organization - Bar-f-out

この日記でもちょくちょく記してきたように、ぼくは兵庫県のとある地方の町(田舎であり、俗に言う「郊外(サバービア)」)において生まれた。今朝、こんなことをふと自問自答することから始めた。「この町のことを、ぼくは愛せているだろうか」。子どもの頃はそれこそ、正直なところこんな町のことなんて大嫌いで都会っ子になりたいとか都市生活を味わいたいとか思ったものだ。具体的に言えば神戸や東京、あるいはそれこそニューヨークのような「ポストモダン」で「トレンディ」で「イケてる」都市で華麗に暮らしたいと思っていた(そんな都市こそ「文化の坩堝(るつぼ)」だと信じ込んでいたのだった)。でも、ふとこう書いていてこんな疑問が頭をよぎる。そもそも、いったいぜんたいなんだってそんな「洗練の極みのような生活」なんてものにあこがれてしまったのか。それはつまりこの生活にまったくもって満足できなかったからだろう。これはまったくもって理の当然というやつだが、こんな場合はまず自分が立つ足元にある土を固めていく作業が必要がある。だからこのことを考えたい。

このことについて考えをぼくなりに深めていくと、ある事実にぶつかってしまう。認めるべきこととして、子どもの頃からぼくはすでにこの町のとても、それこそ死ぬほど不毛な(草一本生えない、渇き切って完全に干からびた土地のような)雰囲気にうんざりしていたというのが本音だった。これは「盛りすぎ」「大げさすぎ」と言われるかもしれないが、でもガキの頃のぼくにとってはこの町はもう「不毛の地」「この世の地獄」としか言いようがなかったのだ。90年代前半だったか、ぼくが10代の頃に村上春樹の著作と運命的な出会いを果たし、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』などで神戸や東京の生活がヴィヴィッドに、かつクールに(いま思えば気取りすぎていてキザとも感じる)筆致で書かれていて、そんな生活など「絵に描いた餅」ということがわかっちゃいなかったぼくはすっかりあこがれをこじらせてしまったのである。いや、もちろんそれは村上春樹のせいではないわけだが。

そしてぼくは(おそらく天運に恵まれ、両親のサポートも得て)早稲田に移り住みそこで大学生活を始めた。いま思えば実に、それこそ「ど」がつくほどのぜいたくをそこで味わえたと思う。大学では英文学を学び、ビートニクの文学やポール・オースターの文学を読みふけった。プライベートでは隆盛を誇っていた、コーネリアスピチカート・ファイヴに代表される百花繚乱の渋谷系の音楽を聴きまくったりもした(渋谷系からは外れるかもしれないが、その流れで暴力温泉芸者ボアダムスの音楽も手を伸ばしたりした)。でも、ついにそんな生活も終わる。就活でボロ負けを喫して、どこにも行くあてもなくなってあきらめてこの町に戻ってきたのだった。

でも、そんなことだったら東京でフリーターとなってでも生き延びる手もあった。いま思えば、ぼくにとって東京生活はもう楽しくもなんともなかったというのが本音だったのかなと思う。なにもかもがあまりにも目まぐるしく変化してしまうそのスピードはこんなノンキ坊主なぼくと相容れなかったのかなあ、と。あるいはそんな感じで、都市生活がオシャレだなんだと紋切り型のイメージで喧伝するのは一部の賢い、そして血も涙もない人たちの狡知に長けた戦略のせいでもあるのかなあと思えたからでもある(でも、その「人たち」を具体的に思い浮かべられないのだが。うっかり書いちゃって「炎上」してもまいっちんぐだし……)。

そんなこんなで夜になり、毎週木曜日恒例のZoomのミーティングに参加する。今回はある参加者の友だちの女性が楽しまれたイギリス旅行(3週間の滞在記録)についてのプレゼンテーションだった。そこでその女性は、大英博物館に行ったり言語交換カフェに赴いたり、フィッシュ&チップスを試してみたりしたとおっしゃった。実に印象深いプレゼンテーションで、随所にユーモアも散りばめられていて心の奥底から楽しめた(イギリスの食事や音楽、アートに関するあこがれがあらためて深まった)。その後、ショッキングな訃報に触れる。それこそ上に書いた「渋谷系」音楽の伝説的トリオ、ユナイテッド・フューチャー・オーガナイゼーションのメンバーの矢部直が亡くなったというニュースだ。まぎれもなくぼくにとって(かつて、そしていまもってなお)クールなヒーローの1人。あらためて彼の残したさまざまな偉業に感謝を示し、同時に合掌したいと思う。ありがとうございます。