跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/04/20 BGM: Orbital - Belfast (David Holmes Remix)

実は今日から月曜日まで3連休なのだった。今朝、図書館に行き上野千鶴子『差異の政治学』という本を借りる。その後イオンに行って鶴見俊輔の本を読みつつあれこれ考えごとをする(たまには気分を変えてゲームやYouTubeに興じるのもいいのかなあ、とまさにこれを書いていて情けなくなってきた)。今日のその考えごとのテーマの1つは、ぼくももう49なのでまさにこの年齢から虚心にフェミニズムを学んでいくにはどうしたらいいのか、だった。

この多様性の時代にあっても、ぼくは自分がフェミニストであるとは口が裂けても言えないのだった。というのは、つねにこんな簡明な事実にぶち当たってしまうからである。ぼくの中には欲望がある。それが人より大きいかどうかはわからないが、たぶんねじ曲がった冒瀆的なものなんだろうなとは思う。性的な要素にたしかに反応する欲望だ。宮沢賢治ばりに「おれは修羅(というか獣)なのだ」とつぶやく……というのはむろん悪ノリがすぎるが、でもこの「男なんだ」という事実は忘れることも無視することもできないのだった。

たぶんだからこそ――男だからという事実と向き合って生きてきて、これからもそうするからこそ(こんな男としての人生を文字通り「生まれる前に」願った覚えなんてないのになあ、と自分の股を見つめて思う)、こんなことを思い出す。ぼくは過去、そうした性的なことがら(むずかしく言えば「性自認」になるが、ざっくり言えば「煩悩」)を捨て去って機械のようになろうと考えたりもしたのだった。もちろんそんなことできっこないのだが、まあ若いとはそういうことなんだろうと思う。

そんな「若気の至り」を経て、いまの肉体労働を初めて……その仕事はぼくに「男であってもいいんだよ」「身体を持つ人間であってもいいんだよ」と教えてくれたのかなとも思う。というか、男であることにことさら(どうせどうしようもないのに)罪悪感を持っても始まらない、とも。ぼくの関心もそんなふうなアホなステージから動いて、いまはどうこの性別をかけがえのないアイデンティティの一部(たとえば「発達障害者」「日本人」「アジア系」みたいに)として受け容れるかに移った。だがもちろん、他人の権利を侵害しないような形でだ。

そんなトラウマ的な時期、こう考えたいとも思った。そんな不幸で孤独な時期を経て(まあ、発達障害者の人生には悲しくなるほど「あるある」な話でもあるのだけど)ぼくの中の論理的な性格・思考は鍛えられたのかなあ、とも。というのはぼくはアホなのでコミュニケーションにおいてはそうしたロジカルシンキングがすべてを文字通り制覇するとも思ったのだ。論理で人をぶちのめせばいいのだ、と。穴があったら入りたい。自分のことを「憎悪に満ちた機械」と表現したトレント・レズナーの向こうを張って(いや、彼のカリスマ性や才能やストイシズムに匹敵するものなんてかけらも持ち合わせていないが)、ぼくもネット時代の言論のバトルの場で機械になろうとも思ったのだった。ドストエフスキーの作品の劣化コピーのようなお話だけど。

別の言い方をすれば、天使や高次の存在というかとにかくこの「人間ども」「愚民ども」の世界を見下ろし睥睨できるようになりたかったのだった。いま、ぼくは社会の一員になろうと勤める。大人になれたんだろうか。内に多彩なアイデンティティ、矛盾するイデオロギーを抱えて生きる「修羅」に。