跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/04/04 BGM: Boogie Down Production - My Philosophy

今日は休日だった。鶴見俊輔『期待と回想』を読み終える。鶴見の正直さは、ぼくは実に(僭越ながら)「信頼できる」と思ってしまった。彼に共感を抱くことができたからだ。彼は自身のことを、過去を振り返って率直に「悪人」「不良少年」と書き記しているのが目を引いた。そして、自身が鬱に苦しみ自殺を考えたことまで明かす(その是非はともあれそうした願望を明かしつつ、しかし品を失わずなお生きる意思をも明確に示している、とぼくは読む)。ぼく自身もまた、そんなふうに悪人でキモい人間と思いつつ生きてきた男である。でもそれは結論ではなくすべての出発点たりうるものだと思う。そこからどう思考を発展させるか、なのだ。

今日、Xで面白い投稿を見かけた。「発達障害者の中にも際立った才能を持つ天才がいる。彼らは社会に富を還元する『活躍する』人材で、ゆえに彼ら(もしかしたら『私たち』)はスゴい」というのが骨子だった。この意見にぼくはある種の共感を抱く(ああ、ぼくもそんな「活躍する」「活躍しうる」人材だったら、と思う)。偉業を成し遂げた伝説の発達障害者たちを思い出す。この歴史において……たとえばアインシュタインやこういう話題になると決まって名が出るスティーブ・ジョブズ、そしてイーロン・マスクといった人たち。でも、こんなことも踏まえないといけない。才能と称されるものを見せないと社会に認めてもらえない、ということになるのではないか――このロジックを受け容れるなら。そして、ぼくはこのロジックを否定したい。

これはただ、ぼくの「私見」にすぎない(だから、ぜひ皆さんも考えてみて欲しいのだ)。この種の意見はこうした意見とセットになりうる。「この社会は常に同じものである必要がある(改良されてはならない)」と。つまり、誰が天才で誰が凡人かを定める基準が同じものであり続けてこそ、そうした社会が何ら手を付けられず改良もされえずそのままであってこそ、天才は常に天才であり続けられる。がゆえに、どうなろうと現状を肯定し続けないといけない(差別構造にメスを入れることは御法度……というのは言い過ぎかな)。この社会は改良されえない。これについて考えないといけないだろう。

だから、ぼくたちはこんな機械的・オートマティックな考え方に気をつけないといけない(難しい言葉で言えば「自動思考」が罠となりうる)。というのは、そもそも誰が「才能ある」者で誰が「そうでない人」なのか。誰が「発達障害者」で誰が「定型発達者」なのか、そうした区分け・区別は理性的というかリアルなものなのか。ぼくは煩悩だらけの凡夫で、口が酸っぱくなるほど書いているがただのエッチなおっさんに過ぎない。でも、言う。ぼくたちは尊厳や親愛の情が必要だし、各人にそれぞれがそうした情を示し与える必要がある。そして、「同時に」この社会を漸近的に変えていく必要がある。アンリアル、つまり非現実的にドンガラガッシャンと世界を変える夢なんか見ないで、徐々に、だ。それこそが「ダイバーシティ」「ニューロダイバーシティ」の理想を実現させる一歩なんだと思う。そんなことを考えたのだった。