今日、Xで面白い投稿を見かけた。「発達障害者の中にも際立った才能を持つ天才がいる。彼らは社会に富を還元する『活躍する』人材で、ゆえに彼ら(もしかしたら『私たち』)はスゴい」というのが骨子だった。この意見にぼくはある種の共感を抱く(ああ、ぼくもそんな「活躍する」「活躍しうる」人材だったら、と思う)。偉業を成し遂げた伝説の発達障害者たちを思い出す。この歴史において……たとえばアインシュタインやこういう話題になると決まって名が出るスティーブ・ジョブズ、そしてイーロン・マスクといった人たち。でも、こんなことも踏まえないといけない。才能と称されるものを見せないと社会に認めてもらえない、ということになるのではないか――このロジックを受け容れるなら。そして、ぼくはこのロジックを否定したい。
これはただ、ぼくの「私見」にすぎない(だから、ぜひ皆さんも考えてみて欲しいのだ)。この種の意見はこうした意見とセットになりうる。「この社会は常に同じものである必要がある(改良されてはならない)」と。つまり、誰が天才で誰が凡人かを定める基準が同じものであり続けてこそ、そうした社会が何ら手を付けられず改良もされえずそのままであってこそ、天才は常に天才であり続けられる。がゆえに、どうなろうと現状を肯定し続けないといけない(差別構造にメスを入れることは御法度……というのは言い過ぎかな)。この社会は改良されえない。これについて考えないといけないだろう。
だから、ぼくたちはこんな機械的・オートマティックな考え方に気をつけないといけない(難しい言葉で言えば「自動思考」が罠となりうる)。というのは、そもそも誰が「才能ある」者で誰が「そうでない人」なのか。誰が「発達障害者」で誰が「定型発達者」なのか、そうした区分け・区別は理性的というかリアルなものなのか。ぼくは煩悩だらけの凡夫で、口が酸っぱくなるほど書いているがただのエッチなおっさんに過ぎない。でも、言う。ぼくたちは尊厳や親愛の情が必要だし、各人にそれぞれがそうした情を示し与える必要がある。そして、「同時に」この社会を漸近的に変えていく必要がある。アンリアル、つまり非現実的にドンガラガッシャンと世界を変える夢なんか見ないで、徐々に、だ。それこそが「ダイバーシティ」「ニューロダイバーシティ」の理想を実現させる一歩なんだと思う。そんなことを考えたのだった。
みらいのリストさんが人を「天才」「凡人」に分けて、そして「発達障害者の中にも際立った才能を持つ天才がいる」という論を語っておられる。これは言い換えれば「才能を発揮しない限り発達障害者は存在価値を認められない(差別構造そのものは温存されたままになるかもしれない)」という悪手でしょう
— 踊る猫 (@aciddazeareback) April 4, 2024
この「特別なことをやれば皆が認めてくれる」問題、ベースにあるのは「ただし、現在の社会の差別的な構造を温存した状態がそのまま続くこと」が前提となりうることに気をつけないといけません。「社会の差別性をどう漸近的に調整しつつ、各々の尊厳を大事に扱うか」こそ私見では「多様性」だと思います https://t.co/NX2MTpXQIt
— 踊る猫 (@aciddazeareback) April 4, 2024