跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/03/23 BGM: Oasis - Whatever

今週のお題「練習していること」

今朝、仕事をしながらぼくはどうやってこの現在の状況を受け容れられるようになったのか考えてしまった。実に「あるがまま」に……その昔、確かにぼくは思ったのだった。この人生、この現状を受け容れることはあまりにも恥ずかしくてそれゆえに耐えがたい、と。というのは端的に現実があまりにも惨めでひどいものに映ったからだった。この日記でもちょくちょく書いてきたけれど、ぼくはいまデパートメントストアで働いている。でも、たいして管理職的な偉いポストに就いているわけではない。ただのカッコ悪い、エッチな男だ。輝かしい才能に満ちた人間というわけではない。リア充(死語?)でもない――ぼく自身はこの生を愛しているとはいえ。

昔はぼくは、インターネットの世界でクールな仮想の人生、ありえないバーチャルな「イケてる」(これも死語かな)人間を気取っていた。クールなカリスマになりすまし(を試み)、なんでもかんでも見渡せて予言できる人間になりたがって無理をしたのだった。次はあれが来る、あいつはもうダメだ、的な。でも40歳の頃、ぼくがいまの友だちと出会ってから、少しずつこの人生・この自分を受け容れる努力というか研鑽を始めたのだった。この実のぼくときたらただのちっぽけな、エッチで煩悩まみれの「凡夫」でしかないにせよ。そして、ぼくは自分の勘を信じ、鍛え始めた。その勘がぼくを運んでくれると信じ、外の権威にやみくもに追従・盲従する生き方から身を離したいと思ったのだ。

今日気づいたのだけれど、「世界自閉症啓発デー」が近づいている。ぼく自身が過去、自分が自閉症(あるいは発達障害)者であることを受け容れなければならなかった時に、文字どおり「お先真っ暗」と思い未来に希望を見出すことができなかった。自分が自閉症と認めることはそのままいろんな「ノーマル」「定型発達」な生の楽しみをあきらめることを意味するのだ、とかたく思い込んでいたのだった。少なくとも、ぼく自身が医師に発達障害者と診断された時はそんなことを思った。でも、いまぼくは自分を取り巻いている環境・状況が激しく変わっていくのを感じる。現代社会の倫理が「多様性」、もっといえば「ニューロダイバーシティ」という概念でカラフルに彩られ虹色になりつつあるのを感じる。

それに対してはシンプルに「いいことだ」「やっとこんな時代になった」と思う自分がいる。でも、ぼくはそもそもそうした「自閉症」「発達障害」という概念はトラブルを抱えた「生きづらい」人たちの人生を後押しするブースター(加速器)になってほしい、と思っている。言い換えれば、そうした概念・ラベルは「自分をありのままに誇れる」と信じられるものになってほしい――ただそれは「自閉症者だからすばらしいんだ」「ぼくたちはやはり定型発達者とは違う選ばれた人間なんだ」式のものではない(うまく言えないけれど、そうした「無根拠な思い込み」は「健全な自尊感情」とは似て非なるものと思う)。自分らしく、謙虚さと自尊感情という矛盾した(?)心理を抱えて――このパラドックスを自分のモットーとしたいと思う。ああ、いまは自分は幸せだ。偽らなくていいからだ。この自分自身を――そしてぼくは今日を生きる。