跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/09/04 BGM: 電気グルーヴ - N.O.

一週間くらい前から家計簿というか小遣い帳を書き始めた。グループホームの施設長の方からお金の使い方について厳しく言われていて、ぼくもその言葉通りにしようとしているのだけれどうまく行かずに困っていて、それで前のミーティングで他の方からそうしてノートに金銭の動きを書いて「見える化」と「振り返り」を行うことを薦められたからやってみようかと考えるようになったのだった。ただお金の動きだけを事務的につけていくのは自分の場合続かないので、短くその日起きたことや考えたことのメモなどを書いて「ミニ日記」のように扱うようにした。そうしたら続くようだ。自分はそうした日記形式の書き方が向いているということなのかもしれない。あらためてお金の動きを見ていくとやはり浪費癖に気付かされ、これまでぜんぜんうまく行っていなかったのに他のみんなの前で偉そうな口を利いてしまっていたなと恥ずかしくなった。そうした自分の試みについて中間報告としてLINEする。過去に使いすぎて失敗した際、さんざん自分自身を責めたことを思い出す。いまだって責めて解決するならいくらでも自分を責めるのだけれど、自責の念を募らせても何も生まれない。いまはただ、生き延びることを考えるだけだ。

そんなふうに自責の念のことをあれこれ考えていて、ふと過去に酒に呑まれていた時のことを思い出してしまった。過去に酒が止められなくて困っていた時、どうしたって酒を呑んで「このまま死ねたらなあ」「もう死のうか」とまで思っていた時、ぼくはずっと自分を責めていた。それは「酒を止められない自分」を責めたというのもあるし、突き詰めて言えば「(望んだわけではなかったとはいえ)こうして生まれてきて、ここに居てしまっている自分」を責めたというのもある。責めて、そのまま死にたいとも思って……でも死ねず、生きていても罪悪感を抱き、結局それに耐えきれずに酒を呑んだ。酒を呑めばそうした罪悪感から解放されると錯覚して……でもそれは虫歯の痛さみたいなもので、根源的/根本的な自分の認知の歪みと向き合わないとどうしたってシラフに戻った時にまた苦しまなければならない。自明の理というか、小学生でもわかるそんなことがまったくあの頃わかっていなかった。あるいは酒を呑めばほんとうの自分に戻れる、こんな自分を受け容れて愛せるとも思ったのではなかっただろうか。いずれにせよ、シラフに戻るとまた自己嫌悪にまみれて這いずり回る暮らしをしなければならなかったのだけれど。

酒を呑めばほんとうの自分になれる、自分自身を愛せるというのはいま思えば間違いだったと思う。酒を呑んでも自分の気が大きくなるというか、ただ痛みに対して鈍くなるだけであってぼく自身の心が広くなるわけでも人間的に成長できるわけでもなんでもない。ただ、一般的に持たれている幻想として「酒を呑めば本音で話せる」という考え方がある。その考え方をぼくも保持していた時期があった。酒を呑むと、ぼくの中で不協和を起こしていたさまざまなことがら(例えば「早稲田まで行ったこと」や「発達障害者であること」、「男であること」などなど)のその不協和を呑み込める、と思って……そうして、早稲田も発達障害も関係ない「本来のぼく」になれると思ったのだった。でも、それは間違っていたと思う。何度も何度も繰り返しになるのだけれど、酒を呑んでも結局感覚が鈍くなるだけだ。痛みの根源が治療されるわけではない。痛みの根源と向き合い、そしてそれを受け容れるか乗り越えることが大事なのだろうと思う。でも、そんな建設的なことを考えられるようになったのも人とのつながりあってのこと。自分1人ではこんなこと考えられなかったはずだ。独りぼっちで生きていたら、きっといまだって断酒に挫折して酒に溺れていただろう。

そうやって考えていくと、結局酒に呑まれていた時……酔っ払って独りよがりのむなしい喜びを味わって、醒めてから自己嫌悪に陥っていた時に必要だったのは「誰か他の人と話すこと」というか「煮詰まった(誤用かな?)自分自身に風穴を開けること」だったのかなとも思った。ぼくは過去、堀江貴文イカれていた時期があり彼の影響で「何が何でも経済的に自立するんだ」「1人で生きるんだ」と自分を追い詰めていた時期がある。結局でも、自分が発達障害者であることがわかってから市の福祉サービスのお世話になったりするようになり、グループホームにも住まわせてもらうようになって「無理だな」と思ったのだった。ホリエモンは彼のやり方でうまく行った。それはもちろん立派な生き方である。でも、ぼく自身の生き方にもあてはまりうる普遍的な「正解」ではなかったということなのだろう。もちろんこれはぼくが選んだぼくの生き方にも言える。ぼくはみんなに「酒なんか呑むな」とは言わない。酒は呑み方さえ間違えなければ美味しい飲み物だとぼくはいまでも思っている。でも、ぼくは自制/節制して呑めないから断酒するのだ。それでいいのではないか、と思う。そうして自分だけに与えられた人生の「正解」を自分で手探りで見つけることが生きる醍醐味なのだと思った。