跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/07/22 BGM: Cocteau Twins - Carolyn's Finger

今日は休みだった。5連勤の後ということでグループホームで寝て過ごそうかとも思ったのだけれど、自然と身体はいつもの習慣を守ってイオンに行ってしまう。午前中、イオンのフードコートで谷川俊太郎・尾崎真理子『詩人なんて呼ばれて』を読んで過ごしていると英会話教室で顔なじみになったある女性が話しかけてこられた。それで、その方とあれこれ話す。「恋人は欲しゅうない?(どうしてもその方の言葉を書く際、こうして播州弁にしないとしっくりこない)」と言われたのが気になった。「この1年2年、50になるまでが勝負やで」と……その時は「いや、ぼくはこの人生で満足しています」と言い切ろうかとも思ったのだけれど、そこまで熱を込めて言われるとぼくも「確かにこの人生、『さみしい』かもしれないな」とも自分を疑ってしまった。これまでいろんなことがあった……大学時代から呑み始めた酒が祟って、毎日酒に溺れて呑んだくれて過ごしそうして貴重な20代・30代をドブに捨てて過ごしたっけ。恋人を探すなんて気分ではなかった。経済的な問題もあったし、ザ・スミスの曲ではないが「こんなぼくは愛される資格もないし、ぼくから愛することも許されていない」とも思い込んでいたのだった。ああ、実にアホなことを考えて生きていたものだと今なら思える。だが、率直な実感として今感じているような「内発的」な愛はその頃は感じられなかったのだった。ぼくは実に空っぽだった……。

その方から言われたことでもう1つ気になったのは、「あんた、あまり発達障害のことは自分から言わん方がええで」ということだった。「英会話教室で言うてたやろ。みんなびっくりしとったで。『自分から言うか』って」と……その時は「いや、初対面の席ではあったけれどあの時は自己紹介で何か言わなければならなかったので、他に言うことも思いつかなかったので言ったんです」というようなことを言った。でも、確かに「いや、いきなり自分の障害のことを言うのは距離を『詰めすぎ』かなあ」とも反省したのだった。それで、その方と別れた後友だちにTelegramやLINEなどでこのことについて相談する。ぼく自身が自分の障害のことを話すこと(特に「初対面」「ファーストコンタクト」の時に)は「詰めすぎ」なのか。ただ、知られるように発達障害は「見えにくい障害(あるいは『見えない』と言い切ってもいいだろうか?)」である。だが、その障害は確実に困難を及ぼしうる。「雑談ができない」「空気を読めない」といったように。そのことについて前もって把握した上で接してもらえたらありがたいと思うことはおかしいだろうか、と思ったりもしたのだった。どうなのだろう。

もちろん「ぼくは発達障害者です」といきなり言うことは相手に「発達障害者だから配慮しろ」「ケアしろ」と「圧」を与えることになるだろう。そうした空気ならさすがにぼくだって読める。そしてそれはもちろんまずいことなので気をつけないといけない。友だちからは「それはあなたの思うままにしたらいいんじゃない?」と言われた。「発達障害のことを切り出すことが問題だとは思わないですよ」、と……これはもうその「発達障害をカミングアウトすること」の意味をどう置くかにもよるのだろう。ぼくは自分が自分の障害のことを切り出すことはさしてネガティブなことだともシリアスなことだとも思っていない。「軽い」事実を述べているだけだ。例えば「ぼくはパンク・ロックが好きです」と語るように(いや、もっと「軽い」かもしれない)。そして朝お会いしたその方にとっては「重い」ことだと受け取られたので、敢えて「諫言」されるつもりで「言わん方がええで」とおっしゃったのかなと思った。そう受け取ると発達障害についていま一度考え直すきっかけをもらえたということで、面白い出来事だったなと思える。だがその人には申し訳ないけれど、やはりぼくはこの人生を生きてきてしまったから発達障害を自分と不可分のものとして語ることになると思う。

『詩人なんて呼ばれて』を読み終え、谷川俊太郎村上春樹について考えた。2人とも、実に詩や小説で表現することをカジュアルなものにしたとぼくは受け取る。別の言い方をすれば「ハードルを下げた」というべきだろうか。彼らが作品を発表するまで、詩や小説には「(高尚な)芸術作品」という「オーラ」があったと思う。詩人や作家が生涯を賭けて描いた作品、と……だが、谷川俊太郎村上春樹はそれを「日用品」と同じレベルのものにしたのではないか。生活の中にあふれていて、手軽に触れられるもの。別の言い方をすれば「安売り」(というのは谷川俊太郎のスタンスを評した糸井重里の言葉だ)したということだ。いや、谷川や春樹をディスりたいわけではない。これは「高尚な詩か『安売り』の詩か、どちらかを選べ」という問題ではないと思う。ぼくだって気分に応じて「オーラ」を感じられる詩を選ぶこともあるし、あるいは「日用品」として「安売り」されている詩を選ぶこともある。ぼくにとってはシェイクスピアモリッシーも、エリオットもディキンスンもボブ・ディランも立派な詩人だ。ぼくは自分の詩を「安売り」することを恐れたくないと思って詩を書いている。でも朝にお会いした方のような率直な方は「あんたの詩は『投げ売り』やで」と言われるかな……だとしたら「さみしい」なとも思う。