跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/08/21 BGM: 井上陽水 - リバーサイドホテル

今日は遅番だった。朝、あまりみっともいいことでもないのだけれどDiscordで愚痴を言ってしまった。この歳になっても結局独身で、子どももおらずロマンスにも恵まれない人生を過ごしてしまったことについて……書いていくうちに、そうした人生を送ってしまった大本にあるのは子どもの頃に女の子にずいぶん忌み嫌われ足蹴にされた記憶があるからそのトラウマか何かだろうと思った。こうして思い至るというのは愚痴の効用というやつなのかもしれない。結局それが嵩じて「女がなんだ」「本と音楽があれば(あと酒もあれば)もうあとは何も要らない」とまで思い詰めて無理をしたことを思い出す。当たり前の話として、ひと口に「女性」といっても千差万別だ。それは喩えるならぼくが堀江貴文西村博之といった人びとと肉体的な性こそ「男性」として共通してはいるものの考えていることがまるっきり違うのにも似ている。だから、過去の不幸な女性経験(?)から「女とはカクカクシカジカな生き物だ」と見なすのは短絡的だしリアルでもないのだ。クールでもないだろう。今はもっと多様な女性がこの世に存在することを認められている。そして、ふと「こんな風に『自分にハクをつける』ことを考えてしまうから相手にされないのかなあ」と反省した。

今日は1時から仕事に入らなければならなかったので、午前中の切り詰めた時間の中で焦って詩を書く。その後、時間を見繕って今度の31日のミーティングで発表することがらについて煮詰める。ふと、Spotifyで聴いていた井上陽水「少年時代」について、この曲に登場する「風あざみ」という花について触れるところから始められないかと思った。そして、自分の「マイブーム」として詩を書くことを始めた話をして……あまり書くと当日に聞かれる方の期待を削ぐことになるので控えるけれど、井上陽水「少年時代」やそれ以外にもぼくが折に触れて聴いて口ずさんできた曲について(曲の歌詞もぼくにとっては立派な「詩」、もっと言えば「現代詩」なので)語りたいと思った。平沢進「たま」ブルーハーツ小西康陽b-flower など。そこから、ぼくが今読んでいる谷川俊太郎田村隆一といった詩人についてつなぎたいとも思う。それは引いては(大上段に構えてしまうが)「ことば」を見つめ直すということでもある。「ことば」で表現をしたり伝達をしたりする、その「ことば」それ自体について……なんだかウィトゲンシュタインの哲学みたいな話だがあまりややこしい、込み入ったものにしたいとも思っていない。

「ことば」ということで言えば、前にも書いてきたけれど村上春樹の作品において「文明とは伝達である」というキラーワードが登場したことを思い出す(もちろん、これを単純に「春樹の『ナマの』意見」と捉えるのは短絡ではあるのだが)。春樹の作品は一見すると「スカした」というか、深刻さを抜いたニヒリスティックな風情が印象的な作風だが先入観を抜いて読んでみると実はそうした「人と人が通じ合うこと」「コミュニケートすること」の意義・神秘について触れられたものであることがわかる。ぼく自身がここまで春樹の書くものに惹かれたのも、たぶんにそうした「コミュニケーション」の不思議を自分なりに考えていた折に出くわしたからではないかと思う。それは日本の風土を超えて、世界的に共感可能な(ということは「普遍的な」)アポリア/難題であるのだろうと思う。もちろん、そんな問題を問うてきた作家は数多とした。いや、極論・暴論になるが人が小説を書くこととはその表層的な作風を超えて「自分の問題を世界に問いたい」という意味でそうしたアポリア/難題に挑むことなのかもしれない。だが、これ以上考えると頭がこんがらがってくる。

と書いてみて、自分はこうしてわざわざ問題を難しくして問いつづけて、掘り下げてそして終わっていくのかなと思った。一生をかけて「なんでだろう~」とテツandトモのように問いつづけるのかなあ、と。答えが出るかどうかわからない。これまでもぼくは何度も答えを出したというか、自分の考えていることについて真理を見つけたつもりで生きてきたのだった。ある時は宮台真司的なテーゼを信奉して「人生に意味はない」と思い、中島義道イカれて「人生は気晴らしでしかない」「生きる価値なんてない」とうそぶいて、そして酒に溺れたりもした……けれど、それから自分が発達障害者であることがわかってそのあとになって友だちと出会い、ミーティングに参加するようになって自分の秘められた可能性を見つけ出した。そこで出会った方の「哲学的な考え方ですね」「英語がきれいですね」といった言葉に出くわしたことでウィトゲンシュタイン谷川俊太郎を読み始め、詩を書き始め……こんなちゃらんぽらんで無軌道な生き方をしているものだから60歳を過ぎたらぼくはもしかしたら農業でも始めているかもしれない。いやはや、60になって「老いらくの恋」が始まるなんてこともあるのかもしれない……。