跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/08/20 BGM: R.E.M. - Radio Free Europe

今日は休みだった。朝、ZOOMを立ち上げミーティングに参加する。毎月恒例の発達障害を考える会のミーティングで、今回は午前中だけの開催だったのだけど短い中で濃い話ができたと思う。ぼくはロシアの友だちのビクトリアさんからもらっていた話題の「お金の管理について」話すことにしていたのだけれど、直前になってネットラジオ「イタラジ」で自分の詩や断酒会について語ったことから「語ることが衝動買い(ひいては依存症の苦しみ)に効くのではないか」と思ったのでその話も含めてしてしまった。そして他の方の意見をもらった。そうして「吐き出す」「語る」ことで言えばぼくは今はLINEなどで積極的にグループホームの方や友だちに「お弁当が値上がりしていました」「こんなものが欲しいんです」というように送るようにし始めているので、今さしあたってお金のことで(前ほどは)トラブルが少なくなってきたのはそのせいかなと思った。「買ったものを記録して『ふりかえり』『可視化』すること」を薦められたので、さっそく会が終わった後書き損じたノート(もったいないので捨てていなかった)かスマートフォンのメモアプリか何かに「こんなものを買った」と購買記録をつけようかと思い始めた。Discordのぼく自身のサーバでもいいかもしれない。

その後図書館に行く。そこで最初は荒川洋治の本を借りようかと思っていたのだけれど、ふと辺見庸の『青い花』を読みたくなってしまった。辺見庸に関して、思い起こせばぼくは彼のエッセイやルポルタージュしか読んでいないことに気がついた。彼は作家として活躍していた時期があり芥川賞も受賞しているが、実にノーマークでそうした政治的な発言(アジテーション?)ばかり追いかけていたのである。だが、詩人としての顔も見せる彼についてそうした彼の想像力/イマジネーションが織りなす世界というものも見てみたいと思った。なので『田村隆一エッセンス』と一緒に借りることにした。その後ご飯を食べて、グループホームの本部に行きそこでもらっていたボーナスを半額渡した。自室に戻り、さっそく『青い花』を読み始める。そして、「これは実に『あなどれない』作品だ」と思い始めた。彼の詩集や、最近映画化された『月』も読んでみたいと思わせられたし、できっこないのに「この散文のグルーヴ/ノリを真似られないものか」「この文に追いつけないものか」と考えた。書き損じのノートにこうした「ぼくなりの散文詩」「ぼくが幻視した世界」を書いてみる……いや、どう考えても辺見ほどねばり強く書くことなんてできるわけもなく「三日坊主」で終わるのだけど。

青い花』を午後、そして夕食を挟んで夜の時間を費やして読み終えて、その後ぼくの詩のブログに感想文を投稿する。読みながら思ったのは村上春樹のことだった。というのは、『青い花』を読みながら「これを英語に訳するのは実に『骨が折れる』だろうな」と思ったからだ。村上春樹的な比較的に簡単に英訳できてしまう文体、スムーズに他者に伝わりうる文体というのが一方としてありうる(あくまで「比較的に」である。機械翻訳か何かを通したら彼や片岡義男といった作家の書くものがすんなり訳せてしまうとまでは思わない)。そしてこの辺見庸のように母国語の中でさえゴキゴキにねじれていたりつっかえたりしているような、「リーダビリティ」「読みやすさ」を犠牲にして思念が率直に記述された文体・文章というものがありうる。どちらかであるべきだ……と単純に片付く問題ではないだろう。ぼく自身は英語を学び村上春樹に私淑する身として「言葉の壁を超えた表現」に興味を持つのだけれど、一方でこうした辺見庸的言語実験こそがぼくたちの使う日本語、あるいはその言葉を生み出す想像力/イマジネーションの幅を広げて質を変容させるという可能性も無視しえないと思う。

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そして時間があったので、ふと「100の質問」的なものに答えたくなってきて(自己紹介的なコンテンツを作っておきたくなったというのもある)いろいろ調べる。ぜんぜん知らなかったのだけれど七月堂という出版社が、詩人たちに「30の質問」をしているのを読む。ぼく自身、これらの質問をテンプレートとして使えるようなら使いたいと思った。読ませてもらいながら、ぼくと詩の出会いについて考えた。小学生の頃に、長田弘が記したある詩に出会って子ども心に感銘を受けたことなら思い出せる(先生に「筆写して下さい」と言われて、実に子どもには長すぎる詩であり苦労したということもあって、それで覚えているのだった)。だけどそこからさっそく子どもなりに自分でも詩を書くというところには至らなかった。小説にのみ頭が行ってしまったからだ。小説を書く人の人口に比べて、詩を書く人の人口はどうしてこんなにも少ないのか……と書いてみて、いやそうは言えないかもしれないとも思い始める。ネットにはアマチュアの詩(口の悪い人が「ポエム」と揶揄するもの)がゴロゴロ転がっている。そうしたアマチュアリズムに裏打ちされた詩を書く人の増加や詩の広がりについて、前に読んだ相田みつをの書やヒップホップ(都築響一が『夜露死苦現代詩』で指摘していた事実)について考えてしまい、そうして夜は更けていった。

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