今日は遅番だった。朝、いつものことではあるのだけれど鬱な気持ちになる。どうしてなのかわからず、したがって対処のしようもない。思い当たるところと言えば昨日高橋源一郎の小説を読み「この世界とは何だろう」「ぼくとは何だろう」と考えてしまったからというのがある。そのことを詩にしてしまう。空を見て、ぼんやり「あの空はほんとうに青いのだろうか」と考える(「青い」からもう一歩進んで、具体的な青さを描写する言葉を探し「紺碧」という言葉を学んだ。詩の中には結局使わなかったのだけれど)。イオンのフードコートで詩を書き、その後弁当を買って食べる。実にぜいたくな悩み・問題ということになると思うのだけれど、なんだかいろんなことが虚しく感じられる。それを突き詰めていくと「詩を書くこと」や「仕事をすること」、もっと言えば「生きていること」が虚しい……X(元Twitter)を開くと他人の意見をボロクソに言っている人がたくさんいる。ぼくもかつてはそうした罵倒を繰り広げたことを思い出す。ある目標に向かって何かを行う時に、ぼくは生きていることそれ自体にまつわる索漠とした不安を忘れられる……と書いていくとなんだか哲学じみてきた。結局サルトル『嘔吐』を読むのも頓挫したままであることを思い出した。
今日はフィリップ・フォレストというフランスの文芸評論家が書いたエッセイ的小説『さりながら』を少し読んだ。この作品では日本の偉大な俳人である小林一茶について触れられている。そこから一茶が生きた激動の時代について語られ、一茶の句にある鋭利な観察眼について分析されているのが目を引いた。実にメランコリックで美しい散文が澤田直の達意の翻訳によって綴られているのにやられる。この本は折に触れて愛読してきたつもりだったけれど、今日生まれて初めて読んだかのような実に新鮮な気持ちで読むことができた。そして、一茶の句を読みたいと思ったのだった。池澤夏樹が編んだ『日本文学全集』の中に芭蕉などと一緒に収められているはずなので読みたい、と……そして、今はたぶんぼくは「そういう気持ち」なのだと思った。生きる意味について、生きることの価値についてあれこれ(答えなんて、逆立ちしたって出ないというのに)考え込まざるをえない。もちろんこんなこと考えたって腹が膨れるわけではない。イヤミでもなんでもなく、「考えない練習」というか「持ちこたえること」が大事なのだと思うけれどそれがぼくの性分なのだとしか言いようがないのだった。
今日はふと、仕事をしながら「たま」の曲のことを考えてしまった。「さよなら人類」や「らんちう」で一世を風靡したあのバンドのことだ。休憩時間に詩をノートに清書して、『犬の約束』の中から「夏の前日」を聴く。それで、今月末くらいにぼくが木曜日のミーティングでプレゼンテーションをする際は「ぼくの好きな詩」について語れたらと思った。ぼくは実に文学や音楽に関しては野蛮極まりない育ち方をしてきたので、詩といえば萩原朔太郎や中原中也ではなく――ましてやランボーやボードレールでもなく――佐野元春のようなミュージシャンが書いた詩が思い浮かぶ。そこからビート・ジェネレーションの詩人を知り、あるいはルー・リードやボブ・ディランの詩を知っていったのだった。「たま」の曲から言えばぼくは4人の書く詩はどれも好きなのだけれど、強いて言えば滝本晃司が書いた詩が好きだ。メロディの上で自在に広がっていく詩。そしてイメージ。それについて語りたくなってきた。高村光太郎や宮澤賢治について、あるいはルイーズ・グリュックやヴィスワヴァ・シンボルスカといった詩人について。いや、問題は「ニーズがあるか」「退屈しないかどうか」なのだけれど。
そんなわけですっかり、「詩人気取り」も板についてしまった。今日も終わってみれば金子光晴の新刊の文庫本『詩人/人間の悲劇』を買おうかどうか考えてしまい、ボーナスを実際に手に取るまで待ったほうがいいのかなと思い……過去に(親が尻拭いをしてくれていると気づかず)ポンポンと酒を買い込んでいた日々から比べるとずいぶん堅実なお金の使い方をし始めたものだなと思う。いや、広い目(?)で見ればこうして「買わない」「使わない」のは「経済を回さない」ということでもあるけれど……買えるもの・読めるものならブレイディみかこの新刊だって買って読みたいけど、「それにつけても金の欲しさよ」という懐事情もあってなかなか手が伸びない。部屋の本の片付けもして思い切って「断捨離」で本を捨てないといけないとも思った。夜、仕事が終わり帰宅後詩をブログにアップロードする。すぐにアメリカの友だちが詩を褒めてくれたのでうれしくなる。そして「ぼく自身は謎だ」とあらためて思ったのである。だって、朝うんうん唸って「憂鬱だ」「ぼくって何だろう」と考え込んでいたのだから。自分の「今の気持ち」に引きずられず、「いとしのエリー」でも歌いながらノリで生きるのも1つの「人生の達人」の生き方なのかもしれない。