跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/08/13 BGM: Leftfield - Open Up

今日は休みだった。朝、注文していた金子光晴『詩人/人間の悲劇』を買いに行く。そして図書館に行き吉増剛造『我が詩的自伝』を借りる。イオンに行き、そこで午前中は詩を制作する。今日は音楽はサイモン&ガーファンクルを聴いた。ぼくの頭の中はどうなっているのだろう、と書きながら考えてしまう。詩の中にポンと「トレント・レズナー」や「ダディーG」といった固有名詞が出てきて、我ながらずいぶんカオスというか「こんなものが自分の頭の中に眠っていたのだな」と驚いてしまったのだ……それがまさにぼく自身の精神が立派な「冷蔵庫(冰箱)」であることを現しているようで面白い。ただ、もちろんその固有名詞が下手をするとマニアックな情報の羅列になることを危惧してもしまう。ぼくとしては「知らない」「知っててたまるか」という態度で読んでもらえればいいとさえ思う。そこから一方で「何を意味しているのだろう」と調べてもらうのもぜんぶ読者次第だ(読者はそこまで自由・気まぐれであっていい)。ぼく自身読者として、村上春樹の小説から「クロード・ルルーシュ」を調べたり高橋源一郎の作品から「中島みゆき」「金子光晴」「ランディ・バース」に出会い直したりしたことを思い出す。

昼、昼寝をしてそしてその吉増剛造『我が詩的自伝』を読む。吉増剛造については実を言うとまったくといっていいほど知らなかったのだけど(多少詩をかじったことがある程度だった)、この本を読んでみて「実に『軽い』な」と思ってしまった。別の言い方をすれば「軽やか」という……この「軽い」はある意味ではネガティブな意味を引き起こしやすい。「尻軽」「軽薄」といったような感じで。だけどぼくはむしろこの「軽さ」をポジティブに捉えたいと思った。そのフットワークの「軽さ」ゆえに彼は海外にも赴くし、興味に誘われるまま芥川龍之介に代表される文学からキルケゴール哲学や吉本隆明まで多種多様な本を読む。そして、その「軽く」行動し接種したものが詩作として結実・昇華される。この『我が詩的自伝』で紹介される吉増の作品はぼく自身の好みではないにせよ、しかし確かに強烈な個性を感じさせるものではあった。彼から学べることは多いな、と直感的に考え同じ講談社現代新書から出ている『詩とは何か』を読みたくなった。こうして読みたい本がどんどん現れて、読むつもりだった金子光晴が遠のいていく……いや、読めれば『どくろ杯』だって読みたいと思っているのである。

夜に、ぼくが参加しているDiscordのサーバでイタローさんという方がやっておられる「イタラジ」に参加することになっていた。なのでその前準備として、ぼくが通ってきた「詩(主に現代詩)」について、どういうことを話すべきか・話したいか考える。ぼくはあまり育ちがよくないので、読んできた本全般にしても家にある『日本文学全集』『世界文学全集』を読んだというような話にはならない。まして詩に関しては、詩人よりもミュージシャンの詩(「詞」と書くべきか)の方が先にあった。佐野元春フリッパーズ・ギター小山田圭吾小沢健二)、種ともこ「たま」や八野英史(b-flower)、小西康陽……といった人々だ。そうした出会いあってのことなのか、ぼくは詩とは大衆文化・大衆文学のものという思い込みが強い。人口に膾炙した、人に広く読まれた詩にはそれ相応の価値が存在する、と。もちろん図書館の書庫に眠っている詩、あるいはアカデミズムで少数の熱狂的な読者を得ている詩も確かにすばらしいものでありうる。けれど、それと同じくらいぼくにとっては「今」読まれていて、希求されている詩の側に立ちたいとも思うのである。だからこそ谷川俊太郎のような詩人に惹かれるのだろう。

夜、その「イタラジ」に参加する。そしていろいろ話す……これは事前の青写真通りにはいかず、あれこれ話が脱線してしまい聞いておられる方にとっては「どういうことなんだ」とよくわからないものになったのではないかとも思った。だけど、いい話ができたとも思う(もちろん1人でできたことはなくイタローさんの的確な司会あってのことで、深く感謝したい)。「書くことで何が可能か」という話になり、ぼくはつい「大きなテーマだ」とびっくりして頭の中が真っ白になってしまった。でもそこでふと、「人は書くことで自分の中の概念・思念を吐き出し、紙やディスプレイに物質として文字を残す。それは自分の『外』に考えを出したことになり、そこからこの自分を客観的に見つめる礎というかきっかけになるのではないか」と思った。それはそしてぼくが断酒会でやっていることである。思っていること、わだかまっていることをともかくも「外」に出す。自分の中で押し留めていても解決しないと思い切り、そして「吐露する」「吐き出す」。それが回復・治癒につながる……いや陳腐な話かもしれないけれど、その自己治癒あるいは自己療養の儀式としてぼくの詩作もあるのかもしれないと思った。