跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/08/16 BGM: 平沢進 - 金星

今日は休みだった。お盆期間ということでいつもぼくが参加している英会話関係のミーティングもなかった。朝、図書館に行きそこで吉増剛造『詩とは何か』などを借りる。図書館を出た後になって、「そうだ! 都築響一夜露死苦現代詩』を借りるつもりだったんだ!」と気づく……こんな「ポカ」はしかしぼくの発達障害ライフにおいては「日常茶飯事」なのであった。ともあれ今度借りるか文庫版を買うかしようと思い、イオンに行ってそこで詩を書く。語弊があるというか「ナメてるのか」という話になると思うのだけれど、頭の中にあるゴミを整理しているような感覚だ。その後月末(31日)のミーティングでぼくがプレゼンする話題について考える。「飽きっぽさ」と「こだわり」という水と油みたいな性格が併存しているのも発達障害ライフの常識ということで、パッと「詩について語らせてもらえたら」と思いつく(この間、「構想」に費やした時間は30秒かそこら。何とも「せっかち」な話だ……)。ぼくの好きな詩人。それはつまり『夜露死苦現代詩』に倣ってぼくの好きな歌詞(例えば、今聴いている平沢進「金星」やブルーハーツブランキー・ジェット・シティといった音楽)や現代詩について語るということになる。

昼食を摂り、昼寝をした後にまたイオンに行きそこで吉増剛造のその『詩とは何か』を読む。とても面白い本だと思った。折に触れて何度も読み返す本になりうると思ったのだけれど、そのためには買い求めないといけない(ああ、フェルナンド・ペソアの評伝も出たというし松下育男の詩集も欲しいと思っていた折だったのに。お金が……)。この本の中では多彩な詩人が引用・言及されてまな板の上に載せられている。吉本隆明日時計篇』(恥ずかしながら吉本のこの詩は存在すら知らなかった)、エミリ・ディキンスン(さすがに知っていた)、吉岡実……詩人の枠を超えたところではヴァルター・ベンヤミンフランツ・カフカにも触れられ、あらためて吉増の関心の幅広さに唸らされる。そうした詩人や作家、思想家を縦横無尽に参照しつつ独自の論を組み立てていくその知的なフットワークの軽さにも唸った。ぼくは本を読む時、メモを取ったり線を引いたり付箋を貼ったりといったことはしない。だけど今回ばかりは「もっとゆっくり読んで、『噛みしめる』作業をした方がいいのかな」と思った。ツルツルとそうめんでも食べるように読む自分のそそっかしい読み方を反省して……でも結局読み終えてしまったのだけれど。

そして、吉増が「わたくしは、他者から用意されたものといいますか、他者との偶然というか、何か、コピー、写しのようなものでしょうか、そんなものを活かしているところがあるのですね」(p.198)と語っているところが目を引く。ぼく自身もずっと書くことは「他者との偶然と」の出会いから始まったと思ったからだ。それまでもぼくの中には世界に関する疑問や幼いなりの物語の芽があったのだけれど、それが具体的にぼくの中で「こうしたら形にできるかもしれない」「書けるかもしれない」と思い始められたのはやはり村上春樹の作品との出会いだったのである。それはぼくがコントロールできない話であり、ぼくはその出会いまで「待つ」しかなかった。人が何かを書くということはそうして読者として「外」にあるテクストを読み、あるいは「内」にある「自分のテクスト(の芽)」を見定める・発見するという謂なのかなと思う。「外」と「中」。ぼくという脳・主体の中で両者がこうもり傘とミシンのように出会い、化学反応を起こす。そこから詩が発火・発光し始める……そうしてできた詩を夜、清書してアップロードしていく。今日もなんとか1作、ヘタクソではあれぼくらしい詩を作り上げることができたと思った。

夜、断酒会に行く。その直前になって、ふと会場近くにある古本屋に立ち寄ってみた。さまざまな本が目を引いたが(ジャレド・ダイアモンド入不二基義など)、ゆっくり懐事情を見定める余裕もなく300円で深沢七郎『言わなければよかったのに日記』の文庫版を買う。断酒会ではお盆期間の仕事のこと、そして日曜日にDiscordで行われた「イタラジ」で詩について話させてもらったことなどについて話す。語ること、アウトプットすることがいかに自分の頭の中を整理させ、スッキリさせるか。思いにならない思念、もやもやした欲求に筋道がつき理不尽とも思われる飲酒欲求や不満が薄れる。ぼくなりの表現を使えば「ストレスがとろける」ということになる。会の後にグループホームに戻り、藤原ヒロシの生み出す芳醇なグルーヴを聴きながら松下育男の本を読んだりして時間をつぶす。ここまで来るのにぼくは48年を費やした。過去、ぼくは「村上春樹になりたい」と思い無理をした。そう思うことはいいことかもしれないが、そこから「なら、今のぼくのままではダメだ」と思うと苦しくなる。ならば、今は? 今のぼくの前には誰がいるのだろう? これから誰を「お手本」にして生きていったらいいのかなとも思い始めた。ぼくの後に道ができる……と書いたのは高村光太郎だったかな。