跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/08/19 BGM: Pavement - Summer Babe (Winter Version)

今日は早番だった。仕事が終わり、夜に松下育男『これから詩を読み、書くひとのための詩の教室』を読みかけていたのをようやく読み終える。以前は恥ずかしながら、なんでもかんでも本を買い込みそして泣きを見たものだったがそんなムチャな物欲も失せてきたようだ。ボーナスが入ったということで澤田直によるフェルナンド・ペソアの評伝や阿久津隆の日記の新刊を買いたいとも思ったのだけれど、優先順位というかいちばん古く「欲しい」「自分に必要だ」「繰り返し・末永く読むだろう」と思ったのはこの松下育男の講演集だったので、あらためてグループホームにボーナスを半額渡した後交渉してみることにする。奥歯に違和感があるので歯医者にも行きたいし、いろいろお金の管理の悩みは尽きない。そう言えば昼だったか(昨日のことだったかもしれないが定かではない)、元ペイヴメントのドラマーのゲイリー・ヤングが亡くなったとのニュースを聴く。ぼくはペイヴメントは『クルーキッド・レイン』くらいしか知らないのだけれどこのアルバムは好きで、折に触れてよく聞く。脳のコリをほぐして、リラックスさせてくれる(「人生は思ったより『甘い』かもしれない」とも思わせてくれる)効果があると思うのだ。ゲイリー・ヤングが在籍していた頃のアルバムも虚心に聴き込みたいと思った。合掌。

松下育男の本から、ぼくはあらためて「詩を書くとはどういうことか」を学んだような気がする。とはいえこの本、悪く言えば実にあっさりしているというか松下育男の主張がいい意味でも悪い意味でも暑苦しさがない。押し付けがましくないので、一度読んだだけではあっさり「流して」「スルーして」しまう怖さがある。したがって、リルケ保坂和志の詩や文学論を読むように何度も読み返したいと思ったのだった。脱線するが、ぼくが思う「最近の本」はそうした「繰り返し染み込ませるように読ませる」面白さとは真逆の「一度読んだだけでパッと掴ませるインパクト」を重視したものが多い印象を受ける。見開きでキャッチーなフレーズが1行だけドンと載っていたり、ゴチックで強烈なフレーズがさらに強調されていたり。もちろんそうしたアフォリズム的な面白さも本の面白さではあるのだけれど、ぼくは歳をとったせいかそんな「強烈さ」よりもあっさりした中に(語義として矛盾してるかな?)「コク」「旨味」がある本をこそ好んでしまうのだった。その意味で、どうやって出会ったのかは忘れたのだけれどこの松下育男の本やあるいは谷川俊太郎などとの出会いは幸せだったと思った。

そんなわけで、繰り返し読み込みたいと思い始める……今の段階でぼんやり思うのは、松下が「生きていくために/ただ書いている詩が/あっていいと思う」と書き記しているそのセンシティブさ、真面目さについてだ。この詩人にとっては「生きること」と「書くこと」が直結している。「よく生きる」ことと「よく書く」ことがつながっている。ぼくはひねくれ者・あまのじゃくなので、極端なことを言えば言葉の断片をシルクハットか何かの中に入れてかき混ぜて作るようなものも詩だと思うし、あるいはマニュアルにごくクソ真面目に沿って作るようなオートメーション化されたものも詩だと思う。だけど、ぼくはそんな「心のない」詩の書き方ができない。これはでも、「仏作って魂入れず」が嫌いとかいう美学の問題ではなくぼく自身の不器用な書き方として「どうしたって書いていると自分の思いを(悪い意味でも)込めてしまう」ということなのだと思う。音楽に例えると、ぼくは小室サウンド小西康陽だって聴く。だけど、ぼくが書いたり聴いたりするのはそんな洗練とはほど遠い詩や文章なのである。トム・ウェイツのようなエレジーめいた叙情……と記してしまうとカッコつけすぎかな。

よく書くことはよく生きること、よく生きることがよく書くこと……と書くとなんだか武者小路実篤的な朴訥な美学ということになり、「そんな『小市民的美徳』『道徳教育』みたいな話がつまらないから小説を書きたいんだ」と思っていたかつてのぼくのような人間をさらに敬遠させることにつながるかもしれない。そう、かつてのぼくも(はっきり思い出せないけど)宮台真司言うところの「終わりなき日常」が退屈で、そこから刺激を求めてファンタジーやぼくなりのサイエンス・フィクション的な世界(もっと言えば筒井康隆的なぶっ飛んだ虚構の世界)に憧れを抱いていたのだった。でも、今は太陽が東から昇り1日が始まり、ご飯を食べると旨く仕事をすると上司に無視されて……といった日々の凡庸な繰り返しの中にある「光」について書きたいと思うようになったのだった。そして、松下の本はそうした単純な中に深みを備えた日常や人生を祝福さえしているように感じられた。それはしかし、世界をあられもなく愛するからではないとも思う。詩を書くこと、世界をとらえること、生きることの無力を噛み締め、「それでも」書こうとしているその意志の毅然とした強さゆえのことではないかと思った。