跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/05/04 BGM: Depeche Mode - Walking In My Shoes

今朝、ある日本語の面白い言葉について考えが頭をよぎった。それは「甘え」という概念だ。この言葉は英語で的確にズバッと言い表せるものではないらしい(土居健郎による、出色の出来と評価されている古典『「甘え」の構造』をまだ読めていないのが恥ずかしい)。実を言うとこんなことを考えたのはぼくが子どもの頃からつねづね「甘えてる」「甘えん坊だ」と言われて責められ続けてきたことがきっかけだった。先生やクラスメイトたち、そして大きくなってからいまの会社においても。だからいまもってなお、ぼくは「強くならなきゃ。もっとタフな大人に(もっと言えば『男に』)なるんだ」としつこく、非現実的なまでに厳格に思っている。もちろんそんなことできっこないので、それで勝手に独り相撲を取ってしまっている。

少なくとも2つの可能性がありうる。1つは、単にその先生やクラスメイトたちがどうしようもなく想像力に欠けた無責任なアホだったということ。それで証明終わり。もう1つは、ぼくがもしかしたらそうした人たちが命じたような大人になれているかもしれないという可能性だ。なんにせよ、もうすべては過ぎ去ったことなのでいまは安心してもいい。そう考える必要がある……あるいは、そう考えることにこれっぽっちもためらいを感じる必要なんてないのである。これでいいのだ……だが、なんかスッキリしないなあとも思う。まあ、トラウマとはえてしてそういうものなのだけれど。

いや、もちろんそうしてぼくが甘えん坊だった(あるいは、いまだって甘えている人間だ)という事実を受け容れるとしても、じゃどうしたらいいというのか。どういう努力をすればそんな甘えた、未熟な境地から大人に、独立独歩の存在に近づけるというのか。もっと単純に問うなら、ぼくが努力したらそうした問題を解決する最良の手段(ベストソリューション)が見つかるというのか。問題はぼくだけの問題なのか。もしかしたら(ここまで来ると屁理屈だとも思うが)、「充分に子どもの頃だかなんだかに甘えられていなかった」かもしれないからいまの問題が生まれているのかもしれないというのに。いや、仮にそうかもしれなかったからといって、このことで両親を責めたいなんてこれっぽっちも思っちゃいないけれど。

ぼくのことをもっと話すなら、子どもの頃は母がぼくのことをやさしい、いい子だと褒めてくれた。でも学校に行くとクラスメイトはぼくのことを変な、性根のねじ曲がったひねくれ者でバカでアホだとさんざん罵倒したのだった。古き良き理論が教えるように(具体的には「グレゴリー・ベイトソンだっただろうか……ちゃんと読まないとと思ってまったく手が回っていない)、こうした「二律背反」「ダブルバインド」の環境はたやすく人を狂わせる。

10代の頃、心の中が荒れ果てて(いや、外側も荒れ果てていたと思うが)メチャクチャだった頃に本を読んで自分を律する必要があった。ジョージ・オーウェル1984』のウィンストン・スミスが思想警察から逃れて内面の自由を確保するために奮闘したように(ぼくは彼みたいにまめに日記こそ書かなかったものの)、クラスメイトの群集心理から逃れて自分を律したのだった。それが正しかったのかどうか、わからない。その後晴れてそんな田舎の狭いクラスメイトの人間関係から解放されてやっとピチカート・ファイヴの話ができる友だちができてからも、今度は人間不信で死ぬほど苦労したからだ。

いま、そんなふうにぼくのことを「甘えん坊だ」「アホだ」「バカだ」「死ね」と口を極めて罵った子たち・人たち(女の子もいたし下級生もいたし、一度もぼくと面と向かって口を利いたこともなかった子さえいた)はどこに行ったのだろう。いや、もう解放されたのだ。すべては悪夢だったと思い、ぼくも未来に向けて歩む必要がある。いま、思うのはそうした「甘え」も人間関係にあってもいいのではないかということだ。それこそ「甘え」だろうか。いやそれでトラブルが生じたら責めたらいいのである。でも、ぼくのことだけを話せばこの年齢になってもぼくの中にはいまだ子どものぼくがいる。充分甘えられなかったこと、いまだ甘えられないことに苦しんでいる……でも、それを「甘えてる」と言うならもうしょうがない……。