話題としてその紙にしたためたのは、精神年齢についてである。実を言うと心の底、根っこの部分で自分はいったい精神的にいくつなんだろうとしょっちゅう考えてしまう。これは前の英会話教室のレッスンの話題が誕生日についてだったことも関係している。この日記にも書いてきたけれど、今年ぼくは49歳になる。でも、それは実に奇異というか信じられない事実だ。あまり自虐がすぎるのもよくないのだけれど、でもまだぼくは自分のメンタリティ(精神面)がガキンチョだなあとさえ思ってしまうのだった。
青春の日々、恐ろしかった暗黒時代を振り返る――そしていったいこの人生で何が変わったものかと考える。あの大学生の頃、ぼくはブリットポップ(90年代に流行った、英国文化を誇示した華麗なロック・ミュージック)とテクノを愛好する青年だった。いま、ぼくはパット・マルティーノの流麗で洗練された演奏を楽しむ。だからその面ではぼくは変わったのだ。成長したってことだろうか。空に向かって問いかけてみる。ああ、でも答えは帰ってこない。
スナック菓子をボリボリ食べてしまったり、寿司をわさび抜きで食べたり、仕事にはまるっきり役立たない村上春樹を読んだり。そんな事実を鑑みると、まだ子どもなのだなあと思う。でも、子どもの頃ぼくはある意味いまより老けていたのではなかったか。坂口安吾は「風と光と二十の私と」でこんなことを語っている。「私は近頃、誰しも人は少年から大人になる一期間、大人よりも老成する時があるのではないかと考えるようになった」。なら、ぼくもまた大人になる仮定で老いてしまった時期を生きたこともなんら不思議ではないわけだ。ここにも何度も書いたけれど、ある意味ではいまが「プライムタイム(青春の日々)」なのかなあとさえ思う。遅れてきた青年!?
感謝とともに記すのは、DiscordやMeWeやFacebookでこの日記の読者が親切心を示してくださることだ。ありがたいと思う。でも、なぜこの日記がそうした人を引き付けるのかは考えたことがない。ただのデパートの従業員で、強いて言えば村上春樹とウィトゲンシュタインが好きで、それだけだ。ああ、人生は謎でそして奥が深い。