今日、ぼくは宮台真司の旧著『日本の難点』を読んだ。この本の中で、著者の宮台真司は日本が陥っている難題がどのようなものかを整理し説明し尽くそうとしている。コンパクトながら力作だ。いまから振り返ってみて古い時代に書かれたものではあるが(2009年らしい)、中身はまだ役立つ鮮烈さを備えているとぼくは見た。読んでみて、ぼくは過去の自分のことを思い出してしまった。
実に「濃い」本なので部分的にしかわかっていないのだけれど、ぼくは宮台の態度や意見に充分に共感を抱くことができる(「わかりみ」を感じる)。彼はこの本の中で「スゴイ人」に出会い、その人(男女問わず)に影響されることの重要性を説く(彼の言葉を使えば「感染」することとなる)。この意見は賛否を呼ぶだろう。宮台の意見・提案の多くがそうであるように。
思い出すのはぼく自身が20代だった頃、特にぼくがほんとうに混乱して生きづらさの中でめちゃくちゃだった頃にそんな宮台の本を読み込んでソリューション(解決策)を探し求めて右往左往したことだった(ある意味ではぼくは立派な「信者」「ミニ宮台」だったわけである)。ゆえにぼくは彼に「感染」され「取り憑かれて」すらいた。とても偉大な・巨大なカリスマとして彼はぼくの中にあった。
宮台だけではなく、もっと別のカリスマにも感染・憑依されていたことを思い出せる。お教えするとたとえばデーモン・アルバーンや村上春樹、ウィトゲンシュタインといった人たちだ(と書いていて思った。ああ、男ばかりで女性がいない。ぼくがニブいマッチョだからだろうか)。そうした人たちを猿真似することで、ぼくは少しずつ大人になったのかなと思う。知られるように宮台は実に悪名高い社会学者だ(最近スキャンダルも起こしたみたいだし、実に悪役・嫌われ者の道をひた走ってるなと思う)。でも、いまに至るもぼくは彼を敬愛・崇拝していることを告白したい(とはいえ彼のロマンティックな、男臭いイデオロギーをもうコピーしようとはさすがに思えない)。
こうして日記を書き書き……アホみたいな考えに響くと思うのだけれど書く。あなたからみて「ぼく」はどう見えるのかな、と。少なくともぼくは自分が実に「シンプル(単細胞)」で「楽観的」で、まあ「脱力」した「天然素材」かなと思う。過去に重度の宮台信者だった頃はぼくはカリスマになりたいとか著名なご意見番になりたいとかあせったものだった。何でもかんでも単純に整理してしまう知性派に。でもいま、ぼくはこの世に謎がたくさんあることを認められる。それがぼくにとっては「大人になった」証かなあとも思ったりするのだった。