跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/01/05 BGM: Cornelius - 無常の世界

今日は遅番だった。今朝、図書館に行って本を借りてきて、そしてイオンでその内の1冊を読み始めた。池澤夏樹の時評集『終わりと始まり』だ。この本は常にぼくに、たしかな意志を持ち続けて眼前にある状況をじっと見据えること、そして何かをためらわず・怖がらずに発言することのコツを教えてくれているように映る(もちろん、ぼくは知識人でもなんでもないただのエッチな凡夫であるにせよだ)。この本で池澤夏樹は言っている。彼は誰かをやみくもにかんたんに責めたりしない。そして、意見を声高に主張し叫んだりしない。それをちぢめると池澤言うところの「なじらない」「あおらない」になる。東日本大震災において、彼はこのスタンスを守ろうとした。それはとても大事な態度だと思う。あらためて彼に畏敬の念を抱く。

この本を読みながら、こんなことを思った。このやっかいな感情――つまり「怒り」という感情とぼくはどう向き合って「処理」「消化」していくべきなのだろうか。実を言うとぼくはしばしば(自分で言うのもなんだけど、まあ「瞬間湯沸かし器」みたいな性格の持ち主なので)このうっとうしい感情に悩まされる。池澤は彼の見解を実に物静かで紳士的な、そして知的な文体と態度で記していく。でも、その内にぼくはたしかに彼の誠実で生真面目な「怒り」「憤怒」という情念を感じる。それは何人かの日本の政治家に向けてであり、残酷な資本主義の論理や経済のシステムに対してでもあるだろう。感銘を受け、そして思う。怒りは(これを読まれているあなたもおわかりのように)やっかいだ。でも、それは創造的/クリエイティブなものを生み出す契機にもなりうる。ああ、感情それ自体もやっかいではある。ぼくだってこのエッチな感情に何度振り回されたか。でも、いまはそれはどこかカワイイなとも思ったりもするのだった。

その池澤夏樹の本を読みながら、ぼくは去年買って積んだままだった本に手を伸ばしてページをパラパラめくってみた(ぼくはひどい時はこうして本を何冊もハシゴしてしまうのだった)。片岡大右が過去にコーネリアス小山田圭吾)がバッシングされた時の現象を振り返り、その現象を批評的に読み解いた試みの結晶としての本『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』だ。まだ最初の章をサラリと読んだだけだが、これは実に実効的で鋭いツッコミに満ちた試みがなされた本であるとまた唸らされた。特に、現下の状況において。ぼくはなんだかんだでネットというものを利用し始めて30年ほど経つことになるが、そんなベテランであるはずのいまであっても怒りを軽率にもダダ漏れにしそうになるのだった。本書が語るように、正義感がベースであるとしてもそうかんたんにその怒りを誇示するべきではない、とあらためて胸に誓った。破壊的で有害でありうるからだ。冷静さを保ちたい。自戒として、胸に刻んでおきたい。