今日は通院日だった。朝、病院に行きそこでジョブコーチの方と落ち合う。医師と3人で面談をする。医師からは「不安が不眠などに影響しているので、職場の環境などで大元のその不安を取り除くことを考える方がいい」というアドバイスをいただいた。ジョブコーチの方も親身になって私のことを話して下さったので、この方に任せておけば安心だと改めて思った。診断が終わった後、そのジョブコーチの方は私の友だちがやっているFacebookのグループに入られたことを話して下さった。「出会うべき人にはこうして出会うものですね」とおっしゃったので、私自身も自分が他でもないこのジョブコーチと出会えたことや自分がさまざまなミーティングあるいはその他の活動を通してたくさんの友達を築けたことのありがたみを思った。私は無力なので1人では何もなし得ない。人とのつながりによって力を得て、学び、自信をつけて来たのだった。それを思うと、自分があらためて幸福な人間だったのだなと思う。
とある私が所属している「哲学カフェ」的なLINEグループで、私の発達障害についての話が盛り上がった。ある方が「発達障害はある種の才能だと思います」とおっしゃったので、それについて考える。私は才能という言葉をあまり重く考えていない。確かにこの世には才能の持ち主が確実に存在するが、その「秀でた能力」だけで人をジャッジするのは現実的とも思えない。人と秀でてなくとも、平々凡々たる小市民であるとしても人はそこに存在するというだけで尊いのだと私は信じる。そのように感じてしまうのは私がたぶんに自分のことをこそ小市民的であると思っているからなのかもしれない。人と比べて自分にどこか取り柄があるからすごいと考えるのではなく(私の英語力にしても、このレベルの能力の持ち主は確実にゴマンといる)、ただ「唯我独尊」の心意気でありのままの平々凡々な人間としての自分自身を受け容れる。それが大事なのだと思う。
昼寝をした後、部屋にいても落ち着かなかったので気分を変えてイオンに行きそこで池澤夏樹『海図と航海日誌』を読む。ふと、本の中の議論に触発されて「なぜ自分は本を読むのだろう」という根源的な問いに至ってしまう。これに関しては「子どもの頃からのクセだ」としか答えられない。あるいは「この世の中に本というものが存在するからだ」と……決して読書が素晴らしい行為だと考えているわけではない。時間の過ごし方、あるいは学び方として私は読書を英会話や映画鑑賞といった活動と同じものと考えている。素晴らしいから読むのではなく、ただ「なんとなく」読むのだ……これは突き詰めれば私自身の生きる理由ともシンクロするのかもしれない。生きることが素晴らしいから、と意気込んで生きているのではない。ただ身体が生きたいと望むから生きる。あるいは、ただ「なんとなく」生きている……そしてその生存の意志は尊い。そう思っている。
夜、先ほど書いたのとは別の「哲学カフェ」的なLINEグループに入る。そこで浅田彰が坂本龍一を評した動画を薦められたので見てみる。坂本龍一という音楽家の真価について浅田の忌憚なき評価のシャープさに唸る。これはクラシックとポップ・ミュージックを両方知り抜いている浅田にしか語れないことだ。だが、浅田が現在の音楽シーンを「壊滅的」と評しているのが気になる。私が思うに(浅田の知識と比べれば私の音楽の知識など大したことはないのだが)、日本には小山田圭吾や大友良英のようなすぐれたミュージシャンが存在する。彼らの仕事は海外でも評価されているはずだ。あるいはシティ・ポップの海外での評価の高さも無視し得ない。確かにメジャーなJ-POPには内輪のノリに任せたくだらないものもあり得るかもしれないが、一方ではそうした瞠目すべき現象も起きている。絶望するにはまだ早いと私は信じる。