先日、とあるDiscordの友だちが面白い言葉を教えてくれた。「外柔内剛」という言葉だ。彼はこの日記に対しても、「『我慢』と『寛容』は違います」と指摘してくれた。これを私は、「言うべき時は言うべきことをきちんと言うべきだ。たとえそれによって『波風が立つ』ことがあるとしても」と受け取った……というのがあってなのだろうか、今日は早番だったのだけど朝に会社全体のミーティングがあった。そこで私は大ボスが見せたパワーポイントの資料に誤記があるのに気づいてしまった。些末なものではあったが誤記は誤記である。ミーティング後、それを指摘した。すると「すぐ直しますね」となったので、私は勇気を出して指摘したことをよかったと思い安堵のため息をついてしまった。読者諸賢からは「またかよ」「ワンパターン極まれり」と思われると思うが、これにしたってまさに「ジョブコーチ様々」である。ジョブコーチの方が会社に入って尽力して下さってきたおかげで、私もこうしてものを言いやすくなり会社に憚りながら貢献できる環境が整ってきたと実感できたのだった。まさに夢のような出来事に思う。
そのことを昼休み、LINEでそのジョブコーチの方に伝えた。するとその方から「あなたの特性が確実に役に立っているのですね。私もうれしいです」と答えが返ってきた。それで、もちろんケチを付けるわけではないが「特性」という言葉が引っかかり、興味深く思われたのだった。「特性」か……こうして人が気づかないところというか人が見逃してしまうところがいちいち気になるのも私の「特性」である。過去の私、つまり自分のことをボロクソに罵っていた頃の私ならこうした「特性」を端的に「邪魔」と思っていただろう。少なくとも、こうして「気づく」ことを職場で活かしうることは思えなかったはずだ。こうした変化も、そのジョブコーチの方や発達障害を考えるミーティングで出会った方々との関わり/コネクションによって自分が育てられてきたからである。過去の私なら確実に(ヘンな表現になるが)「泣き寝入り」し、やけ酒をかっくらっていたはず。そんなことを思い、「自分はこれでいいのかもしれない」「いや、これでいいのだ」と思ったのだった。
私はただの日本人の発達障害者なのだけれど、発達障害というのもこうして腰を据えて付き合ってみると面白い概念だと思う。海外では「障害者」は1つの表現として「differently abled」とも書くと聞く。直訳すると「違うようにできる人」「違うやり方でできる人」となる。つまり、障害者を「できない人」と捉えるのではなく「できるけれどそのでき方が人と違う」と考えるようだ。確かに、少なくとも私に限って言えば私はまったくもって「無能」というわけではないと自負する。できないことと言えば車を運転できないとか雑談が下手だとかなのだけれど、こうして書くことや英語を(私の場合は「純ジャパ」な英語であるにしても)しゃべれるというように別の形で「特性」が現れているとも言える。だからこそ、だ。そうして「違うやり方で」「特性」が現れるからこそ人はその人の価値を備えているとも言える。それはつまり「その人はその人でオッケー!」ということなのだと思う。そう思うと過去に私がいじめでボロクソに、コテンパンに叩きのめされてきたあの日々はまさに悪夢であり「虚しい」ものだったのだな、と思ってしまう。
ああ、この世界は実に謎めいている。私たちはそうして本来、千差万別に出来上がっている。人と自分は違っていて当たり前で、それこそがこの世界の「驚異(wonder)」を形作っているのではないか……少なくとも私は英語を学ぶこと、本を読んだりあれこれ考えることでそうした「驚異」と触れたいと思って生きてきた。かつては自分の外側にそうした「驚異」を探し、アホみたいに本を読みまくり(その大半は今思えばあぶくのようなゾッキ本だったと思うけれど)、音楽を聴いたりして彷徨った。今、私は見慣れたものにそうした「驚異」を見る。例えば上に書いたような、これまで40年以上向き合ってきた自分自身に。かつては憎くてたまらず、これさえなければどれほど幸せなことかとまで思い込んだ自分の発達障害についても、今ではそれこそが自分に内在する1個の才能もしくは可能性ではないかと思うようになった。こんなヘンテコな自分の中から生み出されるアイデアに対して誇りを抱けるようになったのだった。それもこれも、まさに人との関わりと長い時間を通してのこと。人はそのようにして確実に変わりゆく。焦る必要なんてどこにもないのだな、と思ってしまった。