しかしながら、紙の上に落とせそうな考え(アイデア)というのが俗に言う「メンズリブ(男性解放)」という概念のことだったので、書くべきかどうかずいぶん迷ったことも銘記しておきたい。この「メンズリブ」というのは男性全般が見舞われている「男らしく」「女性をリードする」というたぐいのプレッシャーから男性を解放していくという動きのことだ。いや、ぼくはまじめに書いている。バカげたことと思われるかもしれない。いまは少なくとも、世界は多様化を目指しておりセクシャリティも「男と女」二極化にとどまらない多様なかたちを志向していると感じる。それはそれでいいことというか、端的に「リアル」だと思う。だが、異性愛者のどら猫のぼくとしてはついつい反対側の性に惹かれ、それゆえにあこがれてしまう。そんなことを書きつけてしまった(愚痴ってしまった、と書いたほうが正確だろうか)。
ぼくはたんに生真面目というかクソ真面目過ぎるのだろうか。だから、女性のセンシティブな、繊細にはたらく感情の機敏をついにつかめないのか……いやもちろん、発達障害者の症状が十人十色でありうるように女性たちもそれぞれの個性・尊厳がある。それは人が人である以上あたりまえのことで、日本人にしたって日本的なものが誰か1人の特徴によって定められるなんてことがありえないのと同じだ。個々人とマンツーマンで向き合うきめ細かさが必要だろう。さいきん、Discordでうれしいアドバイスをもらった。ぼく自身が心や言葉づかい、態度をやわらかくしてプレッシャーから自分自身を解き放つすべを身に着けないといけない、というものだ。その彼女のアドバイスで心が文字どおり温まったと思った。今日の仕事では、そんな教えを胸に「柔よく剛を制す」の精神を体現しようと試み、タフなプレッシャーからなんとか逃れよう(というか「受け流そう」)と思ってやってみたりもした。
10代のころ、政治的な本をやたらとあれこれわかりもしないくせに読みあさった記憶はあるものの、実は恥を忍んで言えばフェミニズムについてだけはぜんぜん入り込めなかった。読もうとしても、そこで書かれている男女論がどうも絵空事のように思われてならなかったのだ。当時ぼくはそれこそ女性に(とりわけ、学校の中の女の子たちのコミュニティ・ソサエティに)蛇蝎のごとく嫌われていたので愛される資格も価値もないと思い込んでしまい、くさってしまったのだった。さいきんになってやっとのことで自分が愛される価値があること、尊厳を持ちえており誰かに愛される可能性があることを学び始めた。そんなことをペーパーに書き書きしてすごす。いや、こんがらがってしまっていったいなにがなんやらな作文になったが、先生たちはどうコメントを下さるだろうか。